隣の女は特徴がない
小鳥 薊
隣の女
長年住んでいたアパートの大家の一方的な都合で、立ち退きを余儀なくされた私たち夫婦は、たまたま空きの出た近くの公団へ入居することになった。
仕事を辞めて少しゆっくりしようとしていた矢先のことだったので、時間はたっぷりとあった。引っ越し作業は案の定スムーズに終わり、新居は我ながら良い雰囲気の設えになった。
「ねえあなた、お隣さんに挨拶行った方が良いわよね?」
「別にいいだろ、今どき誰もしないって」
「そうかな……」
確かに、前の家でも挨拶はしなかったし、他の住人が挨拶に来たこともなかった。だいたいにして共働きで日中は不在となる家では近所付き合いどころか、誰が住んでいるのかすら知らずに六年間を過ごした。
「挨拶は、顔を合わせたときにすればいいんじゃない?」
「うん……」
夫の言葉に、それもそうかと納得しわざわざ挨拶に回ることをやめた私は、それから一ヶ月くらいはお隣さんに会うこともなかった。
私の部屋の左右にはどんな人が住んでいるのだろう……。
どうやら、左の303号には一人暮らしのお年寄りの女性が住んでいるようで、生活音は聞こえてきたことがないが、女性が利用するデイサービスのお迎えのスタッフの声が決まった曜日の同じ時間にすることがわかった。
右の301号室は、いまだに誰が住んでいるのかわからない。日中静かな部屋に居ても、夜遅くも、全く生活音が聞こえてこないのが不思議だった。私は、もしかすると隣が空き部屋なのかもしれないと思うようになった。
しかし、それからほどなくして、私は301号の女による突然の訪問を受けることとなる――。
――ピンポーン。
インターホンが鳴った。
「はあい」
「こんにちは、突然すみません。隣の301号の者です」
三、四十代だろうか、女の声だった。
――ガチャ。
私はドアを開けた。
「はい」
「あの、突然で申し訳ないんですけど、急なことでお砂糖を少しだけ分けてもらえませんか?」
「え、砂糖、ですか……」
「今、おやつのクッキーを作っていたところだったんですけど、ほんの少しだけ足りないの」
「あ、ええ、いいですよ」
「ほら、お菓子って少しでも分量を間違えるとおいしくできないじゃない」
「……そう、なんですね」
私は、砂糖のストックがあったかが不安だったが、とりあえず見てみることにした。私は趣味でお菓子づくりなんかしないし、甘いものを好まなかったので料理にもほとんど砂糖を使わない質だったのだ。
私は、リビングを開け放ったまま、数分で見つけた砂糖を適当に容器へ移し、玄関で待つ女の元へ戻ってきた。
「これくらいで、足ります?」
「十分すぎるくらいだわ、ありがとうございます」
女は、そのまま帰ろうとする。私は、ついでにと思い、女を呼び止めた。
「あの、尋ねてくださたっときに失礼かもしれませんが、つい最近、ここに越してきました。よろしくお願いします」
「ええ、一ヶ月くらい前でしょう? 知っていたわ。ここにはお年寄りばかりで若い夫婦って少ないけれど、私とあなたは歳も近そうだし、何かあったらよろしくね」
「はい」
これといって特徴のない女の容姿を、私はこの数分後には忘れてしまうだろう。けれども、お隣が優しそうな人でよかった、と私はすっきりした。
それから数日後、隣の女がまたやってきた。
「この間のお砂糖のお礼と思って……」
「ええ、かえって気を遣わせてしまって、すみません」
女は、自分で焼いたというケーキをホールで持ってきたのだ。
「甘いものはお好きで?」
「ええ……、主人がすごく好きなんです」
私は自分が苦手ということは濁し、とっさに甘党の主人の話題にすり替えた。
「あ、そうなのー。よかった」
「でも、すごくおいしそうなので、私もいただきます」
「うれしいわ」
「そうだ、もしよかったら上がっていきません? ケーキと一緒に珈琲でも。つい最近、友人からおいしい珈琲豆をいただいたんです。珈琲、飲めます?」
「あら、いいの? 珈琲大好き。あなたはご主人とよく飲むの?」
「はい」
「へえ……」
そんなやり取りを交わしながら、軽い気持ちで家に上げた。
女はこれといって嫌味な部分もなく、無遠慮に長居することもなく、ケーキとご馳走した珈琲を食べて帰っていった。
女は空気のように私の部屋に馴染み、初めて話すこの女と、私は不思議と気まずい雰囲気になることもなかった。
「この電気のかさ、可愛いわね」とか「壁紙の色が私の部屋と違う」とか「テーブルどこで買ったの?」とか、そんな他愛のない話をいくつかしたが、私はこのとき気分を害する思いなど一切しなかった。
それから、しばらく経ち、隣の女のことはすっかり忘れていた私だったが、夫のある言葉で再び女を思い出すことになる。
「そういえば、今日さ、間違って一つ手前の301号室を開けちゃって」
「えーー、ボケてんの?」
「いやいや、だってここってどの階もどのドアも同じじゃないか」
「だからっていくらなんでも……隣の女の人に会った?」
「ああ、鍵が開いてたもんだから中まで入っちゃってさ。でも良い人だったよ、わけを話したら笑ってた」
「私も、あの人と話したことあるんだ」
「そうみたいだね、その人がお前のこと言ってた、先日は助かりましたってさ」
「そうそう、ついでに挨拶もすませられたし、よかったかも。ところで隣の部屋ってどんな感じなの?」
「え、同じつくりだったよ。中に入ってしばらく気付かなかったもん」
「えーー、さすがにそれは、あなたおかしいわよ」
「そうかあ?」
我ながら、夫のアホさ加減に呆れてしまった。普段、夫が如何に自分の家に執着がないかがわかる。
「明日からは気をつけてよ」
「ああ」
久々に会話が盛り上がり、私たちはいい雰囲気だった。そのまま、しばらくぶりに夫婦の営みをしたのだが、思えばここに越してきて初めてのことだった。
翌日、たまたま買い物からの帰りに共有玄関で301号室の女と遭遇した。私は、昨日の夫の失態を謝罪しようと前を歩く女を呼び止めた。
「あの、昨日は主人がすみませんでした」
「あら、お隣の奥さん、いえいえ」
「ちゃんと言い聞かせておきましたから」
「言い聞かせるって何を?」
「え、ですから、家を間違えないでって……」
「こちらは気にしてないわ、それにしても素敵な旦那さまね」
「そうですか」
「ええ、羨ましいわ」
「……」
「それから、昨日の夜は、楽しんだの?」
「え?」
「だから、夜よ。ここって意外と壁が薄いのよ」
女はにっこりと微笑んだ。
「す、すみません……」
私は、女の不躾な言葉に気分を害し、すたすたと歩き出した。自分の顔が耳まで紅潮しているのが伝わってくる熱から分かる。
それから私は隣の女を避けるようになったし、寝る際も、この壁の向こう側に女が寝ているのかと思うと、夫からの誘いにも応じることができず何度か夫を不快な気持ちにさせてしまった。
そしていつからだったろう、夫が帰ってこなくなった。正確には帰ってこない日が増えた、と言った方が正しいだろう。というのも、夫は元々仕事の帰りが遅く、平日は擦れ違いの生活が多かったのだが、私が寝てから帰ってきた形跡はなく、朝目覚めても夫はいない。しかし次の晩は帰ってきているようで、朝にそのことを尋ねてみても「ちゃんと毎日帰ってるだろ」の一点張りでなかなか話が進まない。
早く、夫の休日にゆっくりと話がしたかった。
その週の日曜日、目が覚めた私は隣に夫がいないことに落胆し、何が身の上に起こっているのかを冷静に考えようと、部屋中をぐるぐるとうろつきながら考えていた。
日常の何もかもが、この数日で一変してしまったのだ。今まではこんな擦れ違いはなかったのに。そもそもの始まりはなんだったろう。私が夫からの誘いを断ったことだろうか……その原因となったのは隣の女の発言からだ。そうだ、あの女。
私は、躊躇うことなく部屋を飛び出し、隣の家のインターホンを押した。
「はーーい、お待ちください」
出てきたのはあの女だった。あの、女だったはずなのに、何やら見に覚えのある服にエプロンを着ている。
「これは一体……どういうつもり?」
私は、301号の部屋を覗き込んで驚愕した。それは私の部屋そのものだった。同じテーブル、同じ絨毯に、女が「違う」と言っていたはずなのに同じ壁紙――。極め付けは、そのテーブルで食事をとる同じ夫の姿だある。
「あなた、ここで何しているの?」
「え、なんだなんだ」
夫は手を止め、玄関にやってきた。
「お隣の人?」
「そうなの、なんか変なことを言ってるの」
(なに、言っているの?)
「あの、急に押し掛けてきて迷惑です、帰ってください」
夫は私を隣の女だと思っているのだろうか。迷惑そうに私を追い出そうとしている。
「あなた、私よ。本当に分からないの?」
「え?」
「この女に全部、はめられたのよ! 私の生活を乗っ取ったのね。信じられない!」
「何を言っているのかわかりません。とにかく帰ってください」
驚くことに夫は私を邪険にし、ドアの向こうに押し付けた。
「あなた、帰ってきてよ、お願いだから帰ってきて!」
――バタン。
ドアは閉められた。
私は、その前でうなだれながらもドアに耳を押し当ててみた。
遠くから、二人の会話が聞こえてくる――。
「隣の女、やばいやつだな」
「そうみたいね」
「付き合いやめたほうがいいぞ」
「そうするわ」
「でも、なんかお前とあの女、雰囲気が似てるな」
「そう?」
「うん、なんとなく」
「決めたわ、今日美容院へ行ってイメチェンしてくるわね」
「ますます俺好みになるな」
「そうね……」
隣の女は特徴がない 小鳥 薊 @k_azami
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