第6話
普通のフグ刺しに使うような丸い絵皿では無く、あえて無骨な備前焼きの角皿に盛り付けた二枚重ねの刺身。
標準的なフグの造りが持つ風雅な雰囲気とはまったく異なる、素材の持つ『力強さ』を前面に出した、フグの肝料理に相応しい見栄えと言える。
「ほほぉ……こいつぁ」
差し出した皿に、虎蔵老人はニヤリと頬を綻ばせた。
「俺ぁなあ、兄さん。虎蔵って名前のせいか、このトラフグってぇのにめっぽう目が無くってなあ。今まで散々食ってきたが、こんな拵えは初めてだよ」
「喜んで頂ければ、冥利に尽きます」
再び一礼し、控える。
今や室内は誰も一音を発しなかった。
老翁が箸を取り、最後の晩餐を始めるのを黙って見ている。
「じゃあ、頂くぜ。このポン酢を使えば良いんだな?」
その痛い程の静謐の中で、ひとり気負った風も無く飄々と食事を始める虎蔵老人。その姿はとても、これから毒を食べると判り切っている者の態度には思えない。それこそ孫の様な歳の娘と夕餉を共にする和やかさすら、感じた。
周りの緊張もどこ吹く風。虎蔵老人は二枚重ねの造りを一箸つまむと、さっとポン酢に泳がせてから躊躇い無く口に運ぶ。後ろで谷岡女史がちいさく息を飲んだ。
瞳を閉じ、ゆっくりと味わう様に噛み締める。
そして飲み込んだ後、ほぉと感嘆の溜息を吐いて。
「美味ぇなあ」
万感の思いが籠った一言を発した。
俺は黙って再び頭を下げる。
「最初に身の、淡泊なのに味わい深い滋味。そしてそいつを噛んでいくと奥からやって来る、肝のコッテリとした濃厚な味わい。こいつぁ一口でふたつの顔を見せやがる」
もう一箸を掬い上げ、嬉しそうに口に運びながら。
「またこのポン酢がたまらねぇな。兄さん、これもきっと特別な仕事がしてあるんだろう?」
「はい。橙とすだちの果汁を使って酸味を強めに、甘みを控え目に調節しました。肝の強い味に負けず、かつ身の淡い風味を殺さずにお楽しみ頂けると思います」
「おう、存分に楽しめてるぜ。こいつを万が一、カワハギの造りみてぇに肝醤油で出されたらさぞかし興ざめしていた所だが……兄さん、あんた良い腕してるなぁ」
満足そうに目を細めて、俺の作った料理を楽しんでくれている虎蔵老人。そのコメントの端々に、長年フグを食べ続けて来た事がはっきりと判る。そんな通人に、落胆させない料理を提供できた事に内心喜びながらも。
ここからだ。肝心なのは、ここからなんだよ。
緊張に思わず歯を食いしばる。
そんな俺の心持ちを知ってか知らずか。虎蔵老人はゆっくりと味わいながら、しみじみと嬉しそうに箸を運び続けた。
☆
「ああ、ご馳走さん。旨かったよ。末期の飯に相応しいもんを作ってくれてありがとうよ、兄さん」
虎蔵老人は満足そうな溜め息と共に、そう呟いた。
いかにも、「これでもう思い残す事は無い」とでも言いたげに。
彼のその言葉に、後ろに控える谷岡女史は黙って俯き、俺の背後の黒服達もしんみりと佇んでいる。これから確実に訪れる別れに、せめて見苦しい姿を晒さない様にと必死に自分を律しているのだろう。
そんな彼等を横目に、俺は改めて姿勢を正して老翁の前に正座して深く頭を下げ。
「本日は手前の拙い料理をお召し上がり頂き、誠にありがとうございます。『次回』も是非、お引き立ての程よろしくお願い致します」
板前として、そう挨拶をさせて頂いた。
途端に、室内に立ち込める剣呑な雰囲気。
またしても誰も何も言えない中、口を開いたのは虎蔵老人だった。
「……なあ兄さんよ。こう言っちゃあなんだが、俺ぁもうおめぇさんの料理を食う事ぁできねえんだよ。あんまり訳の分らねぇ事ぁ、よしてくんねぇか?」
怒ったというよりもむしろ呆れた顔の虎蔵老人。
まあ、普通はそういう感想になるだろう。
今食べたものが、『普通の』トラフグの肝だったなら。
しかし――
「いいえ、そんな事はございません。お体を治されて是非、またこの『完全養殖無毒フグ』を召し上がって頂きたく存じます」
頭を上げて、虎蔵老人の顔をしっかりと見据えて。
俺はきっぱりとそう言い切った。
「はぁあああ!?」
谷岡女史が、今まで見せた事の無い驚愕した顔で声を上げる。
「み、三浦さん!? 何それ! 無毒フグって!」
普段のポーカーフェイスを脱ぎ捨てて、女子の顔になった彼女が叫ぶ。
「本来、フグは毒を持っておりません。にも拘わらず猛毒の魚になるのは食べている餌の貝類が持つ毒を体内に溜め込むからです。なので海から完全に隔離した陸上の養殖池で、毒性の無い餌のみを与える事により、完全無毒のトラフグを作り出す事が可能なのです」
俺はずいと身を乗り出して虎蔵老人を正面から見つめ。
「お願いですから、末期の飯なんて悲しい事は言わないでください。フグの肝だったら、こうして美味しいものをこれから何度でも食べられます。僭越ながらこの私がいくらでもお作りします。ですから、どうぞご自愛くださいませ」
ヤクザの大親分に、こんな大見得切って俺本当に大丈夫なんだろうか?
なんて事が一瞬脳裏に浮かんだけれど。
食を扱う者として。生命の根源たる食に携わる者として、俺はこの爺さんの行いを善しとする事は絶対にできない。
それに、谷岡女史だって本当はこんな事させたく無かった筈だ。その辺をもっとこの人は考えるべきだろう。
いっそ睨みつける程に真正面から見据え続けていると。
やはり俺の顔を暫く無言で見つめていた虎蔵老人は、ふぅと小さく息を吐いた。
「なるほどなぁ……カタギの人間ってぇのは、こういうもんなのか……」
そしてポンと膝を叩き、
「ご苦労だったな、兄さん。今日はお開きにしようや」
一言残して立ち上がり、部屋を出て行った。
残された俺は、ただぼーっとそれを見送る事しかできない。
虎蔵老人を追う様に、谷岡女史が立ち上がり部屋を後にする。
彼女の肩は小さく震え、一瞬だけ見えた瞳には涙が湛えられていた。
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