第5話


 あれからなんだかんだ手配に時間が掛かり、ついに『この日』を迎えたのは数日の後だった。


「本日の板場をお任せ頂きました、三浦慎吾です。若輩の身ではございますが、ご満足頂ける様、精一杯に務めさせて頂きます」


 いつぞや通された事のある、『事務所』の一室。

 そこに備えられたまな板を前に、俺は陣取っていた。

 この様に座敷で調理をする事は、まれに上客の接待などで行われる事なので経験が無い訳では無い。

 しかし、さすがにヤクザの屋敷で料理する事になるとは思いもよらなかった。

 俺が包丁を扱うからだろう。背後には二人の黒服が待機している。もしも何かしらの不穏な動きをしたら、こいつらは何ら躊躇せず俺を殺すつもりだろう。そういう隠そうともしない殺気が背後からびしばしと伝わって来て、思わず緊張の苦い汗が額を伝う。

 それでもどうにか平静を保っていられるのは、やはりまな板と包丁を前にしているからだ。

 板場こそすなわち、『板前の場』だ。たとえその全周囲がヤクザの勢力圏だとしても、この場所だけは俺の支配する空間なのだ。


 その唯一の支配空間たるまな板の向こうには、数歩分の間を置いて卓が設けられ、上座に鎮座するのは老齢の男。

 長年の闘病生活にやつれてはいるものの、真っ白になった髪を短く切り揃えた細面の顔には筆で描いた様な太眉と猛獣を思わせる瞳。刻まれた深い皺には、長年の風雨に晒されて鍛え上げられた大樹の様な風格すら漂わせている。


「おう。俺ぁ虎蔵だ。今日は頼むよ兄さん。末期(まつご)の料理だ、旨ぇもんを作ってくれよ?」


 発するしゃがれた声すらも厳めしい。

 虎蔵なんて名前の表す通りに、彼の後ろに控える谷岡女史がまるで子猫の様だった。

 このおっかない爺さんを満足させなくっちゃいけないのか……

 うう、恐いなあ。

 と、内心で泣き言を零しながらも、なけなしの意地を張って一礼。

 改めて気合いを入れ直し、


「では、始めさせて頂きます」


 手元の発泡スチロール箱に手を突っ込んで。


「本日の為に用意させて頂きました。今、恐らくは日本で用意できる最高のトラフグです」


 まな板の上にドンと乗せる。

 全長は60㎝にも及ぶ、でっぷりと太ったそれは貫禄すら感じさせる見事なフグ。

 直前まで生け簀に泳いでいただけあって、未だに鰭をバタバタと動かしてその活きの良さをアピールしている。

「うわ、凄い大きさ。これは何処で捕れた魚? やっぱり下関?」

 谷岡女史が、まるで女子高生みたいな声を上げる。それだけの威力を、このでぶんとしたコミカルな魚は持っているのだ。

 その谷岡女史に向かい、バレない様に静かな深呼吸をしてから。


「いえ。これは天然のものではありません。九州は佐賀から取り寄せた、極上の『養殖』トラフグでございます」


 刹那、彼女が大きく目を見開いた。

 そして次の瞬間、背後からいきなり肩を掴まれる。

「おいてめえ! 親っさんの末期の飯だって言ってんだろう! それを養殖もんたぁ一体どういう了見だ!」

 振り返ると、背後に立っていた二人の内の片方が激昂した顔になって俺を睨みつけている。

「なんか言ってみろゴラァ!」

 更に手に力を籠めて俺を揺すぶり、もう片方の手でまな板の上のフグを叩き落とそうとしたので――


「洗ってもいない手で食材を触るな!」


 黒服の鳩尾に容赦無い突きを放った。

「ごふぅっ!」

 思わずうずくまる黒服と、懐に素早く手を突っ込むもう一人の黒服。きっとドスだのチャカだのといった物騒な道具を取り出すんだろう。

 それでも。

「板場の邪魔するんじゃねえ」

 きつと睨んで言い放つ。

 俺の予想外な行動に、さしもの黒服も意外そうな顔で動きを止めた。

 そこでようやく――


「やめねえか」


 この場の支配者である虎蔵老人が、決して大きくは無い声で一言。

 しかしその声は遠雷の様に響き渡り、場の誰しもが呼吸すら止めた。

「この俺の、末期の飯と知って兄さんは用意したんだろう。だったらそいつぁきっと、それなりのモンだ。違うか?」

 厳しさと穏やかさが同居する、『本物』の漢しか出せない様なそのしゃがれ声に俺は深く頭を下げる。

「はい。仰る通りです。世間では天然ものが一番良いという風潮がありますが、そんな事は決してありません。近代的な設備でしっかりと管理され、丁寧に育てられた養殖フグは下手な天然ものよりも遥かに品質で勝ります。それに、これも皆さん誤解されておりますが、トラフグの本当の旬は三月から五月頃。今の時期に天然ものではフグの本質を得られません。しかし養殖のフグは飼育環境を上手に調節する事により、その時々で最高の状態のものを用意する事ができます」

「ほう。するってぇと、兄さんは」

「はい。全国の信頼できる養殖業者に連絡を取り、今日この日に最高の状態で提供できる魚を用意しました。きっとご満足頂けるものと確信しております」

 俺の説明に、虎蔵老人は「ふぅむ」と感心した声を出し、谷岡女史は安心した様な溜息を吐いてから少し恨めしそうな眼差しでチラリと俺を一瞥。

 そして俺に掴み掛かって来た黒服は、ばつの悪そうな顔で配置に戻る。

「では、改めまして。本日はトラフグの肝をご所望との事でしたので」

 まな板に載せたトラフグの、頭頂部から中心線に沿って刃を入れてから服を脱がせる様に皮を剥ぐ。背中の身の部分を剥ぎ、お腹の所まで剥き取るとあばら骨の無いフグはそのまま内臓をさらけ出した。

 真っ先にごろんと出て来るのは、まるでフォアグラかと思わせる肉感的な宍色(ししいろ)の塊。さすがに最高のものを仕入れただけあって、パンパンに張った見事な肝だ。

「こちらを使わせて頂きます」

 用意しておいた手桶でさっと洗い清め、フグ引き包丁で薄造りにしていく。あんこうやカワハギのそれとは違って適度な硬さと弾力があるフグの肝は、思いの外扱いやすい素材。普段からフグを扱っている俺には思い通りに引く事ができる。

 そして返す刀で身の方も、手早く同じ様な薄造りに。

 最後に、丁寧に引いた身と肝の薄造りを、身の部分を下にして一枚づつ重ねて盛り付ければ――


「お待たせ致しました。『トラフグの重ね造り』です。薬味は敢えて用意しておりません。こちらに用意しました特製のポン酢でお召し上がりください」

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