第4話


「うー、頭痛ぇ……胃も痛ぇ……」


 約束の時間の、実に一時間前。

 鈍い頭痛とキリキリする胃に苦しみながら、俺はひとり駅前に立っていた。

 もちろんこの痛みの原因は、昨晩の酒のせいだけでは無い。

「一体どうして俺は昨日、あんな事しちまったんだろう……」

 今更後悔しても仕方の無い事だけど。

 それにしても、俺は一体どうして谷岡女史をデートになんて誘ってしまったのか。

 問い詰めるにしても、もっと他になんかあっただろうに。

 考える程に胃が痛くなる。

 

 ――このまま『お腹が痛い』なんつってドタキャンしてしまおうか――


 いや駄目だろそれは。最悪手だ。ああいった手合いの人相手に、一端結んだ約束を反故にするなんて、後でどうなるか判ったもんじゃあ無い。

 つまり進むも地獄、引くも地獄。

「嗚呼、馬鹿。俺の馬鹿……」

 昨夜の大馬鹿な俺に呪詛の言葉を吐きながら。

 それでもなけなしの勇気を振り絞って待つ事、幾ばく。


「おや、もう来ていたんだね。これでも結構早く出たつもりだったんだけどねえ」


 人ごみの中から唐突に、彼女が現れた。

「……あ、こ、ここ……こんにちは」

 あまりの唐突さに、俺は阿呆みたいな挨拶しかできない。いくら緊張しているからってちょっとテンパり過ぎだろう。嗚呼本当に駄目な俺。

「ふふ。こんにちは」

 そんな駄目な俺に、それでも谷岡さんは笑顔で挨拶を返してくれた。

 いつもの凛とした表情よりも、ずいぶんと柔らかい。

 そして恰好も、今まで目にしてきたぴっちりとしたスーツ姿では無かった。レンガ色したチェック柄のコートに明るいブラウンのロングスカート、黒いタートルネックのセーターというカジュアルなコーディネート。

 こうして見ると、可愛らしさと大人の雰囲気を上手く同居させた年相応の魅力的な姿だった。これだから女は恐ろしい。

「いやぁ、デートなんて何年もしていないからねえ。どんな格好したら良いのか随分と迷ったんだけど、これおかしくないかな?」

 ちょっとはにかんだ笑顔で可愛らしいポーズまで取る。

「あ、と、とても素敵だと思います」

「あはは、ありがとう。あなたも決まってるよ」

 なけなしの一張羅姿の俺に、やはり笑顔で答えると。

「さて、慎吾さん。今日はどこに連れて行ってくれるのかな?」

 さも当然と言った風に、俺の隣に寄り添って腕を組んで来た。そして呼び名も『三浦さん』から『慎吾さん』に変わっている。

「ふぁっ!?」

 過剰な俺の反応に、くすくすと微笑む谷岡女史。その笑い声すらも今日は可愛らしい。

「デートなんだから、腕くらいは組まなきゃねえ。あ、今日は護衛もいないからそんなに硬くならなくても良いんだよ?」

「あ、ははははい」

 緊張してるのはそんな理由じゃねえよという思いと『あ、やっぱり普段は護衛いるんだ』っていう感想をどうにか飲み込む。

 因みに何年もデートなんかしていないのは俺も一緒だ。そんな哀しいアラサー男が一見超美人の、ヤクザの跡取り娘と腕を組んでいるんだからそりゃ緊張もする。

 しかし。

ここまで来てしまった以上、もはや是非も無し。

 心の中で「人」っていう字を何回も飲み干して、隣の彼女に改めて視線を合わせる。

「じゃ、じゃあ行きましょうか」

「ふふ。慎吾さんのエスコート、楽しみにしているよ」

 まるで『お手並み拝見』とでも言いたげな笑顔の谷岡女史。


 ええい、もう毒食らわば皿までだ。


 ……なんてフグ調理師が絶対に思ってはいけない事を考えながら、俺は改札に向かった。



 彼女居ない歴を、ここ何年も積み重ねてきた俺だけど。

さすがに何もして来なかった訳でも無いし、それなりの歳でもある。

 自分にこなす事のできる、等身大のデートプランを一夜漬けで用意した。

まずは昼食に、信頼できる板前仲間の勤めている料理屋で昼懐石コース。そして午後からは、自分の数少ない特技を生かせるデートスポットという事で水族館をチョイス。俺の『美味いか不味いか』だけを基準とした解説に、彼女も楽しそうにしてくれていた。ちなみにアザラシは意外と美味いらしい。

 そうこうしている内に、時間は過ぎる。

 冬の太陽はつるべ落とし。瞬く間に日は暮れて、俺達は港の見えるバーラウンジに身を置いていた。


「楽しかったよ慎吾さん。こんな気分は学生以来かな」

 キールロワイヤルのグラスを片手に、ライトアップされた船を見ながら彼女が微笑む。

「楽しんでもらえたなら、何よりです」

 俺もジントニックをちびちびと舐めながら、同じ船を見つめる。

「まったく、やくざっていうのも中々骨が折れる仕事でね。常に見栄やハッタリ、義理や面子を気にしなくっちゃいけない。時には親兄弟すらも商売のネタにする事だってある。ほんと、文字通りやくざな商売だよ」

 ふう、と小さな溜息と共にそんな事を零す。

 そこには普段の威厳に満ちた跡取り娘では無く、常にのしかかる重責に押し潰されそうな、等身大の女性が居る様に思えた。

 が、それも一瞬の事。

「ところで慎吾さん。あなたが私を誘った理由は、何もリラックスさせてくれる為じゃあ無いんだよねえ?」

 瞬きする間に彼女はいつも通りの顔に戻り、正面から俺に視線を合わせている。

「まあ、あなたが私に言いたい事なんて、分りきっているけどね。父さんの事でしょ?」

「…………ええ、まあ」

 くいっとグラスの中身を一息で空けて、彼女が続ける。

「親の死を望む子供なんて、そうそうは居ないよ。それでもね……私は父さんに食べさせてあげたいんだ。トラフグの肝を食べて、死んで欲しいんだ」

「……どうして、そこまでして」

「こんな言い方あれだけどね。私達に取って、命ってのは多分堅気の人達よりも安いんだよ。自分のも、他人のもね。だからもうすぐ死ぬって分ってる親がさあ、食べたいもの食べて死ぬんだったらそっちの方が幸せなんだろうって、そう考えてしまうのさ」

 一瞬だけ、泣いている様な笑っている様な複雑な表情になった彼女は、しかし次の瞬間にはいつも通りの人を食った笑顔に戻って。

「だからあなたには是非、引き受けて欲しいんだ。もう死ぬと判り切っている親に、せめて最後の親孝行をしてあげたいっていう不良娘の願い。聞き届けて欲しいなあ」

 そこまで言うと、彼女は不意に立ち上がり。

「じゃ、今日はこれで。良い返事を期待してるよ、『三浦』さん」

 最後にお茶目なウィンクなんぞして颯爽と立ち去った。

 ラウンジのガラスドア越しに、いつの間にか黒服が付き従っているのが見えて急に背筋が冷たくなったけど。


「……うん。俺はどうすれば良いのか。だんだん分かってきた様な気がするな」


 グラスのジントニックを、彼女を真似て一息に飲み干す。

 緊張の解れと共に昨日の酒が急にぶり返して来て、俺はそのままトイレに駆け込んだ。


 ☆



「へえ。本当に引き受けてくれるんだ」


 電話の向こうの谷岡女史は、少し意外そうな声で応えた。

「あなたが頼んだんですよ?」

 溜息混じりに答えると、彼女はアハハと軽く笑う。

 そう。

 俺は熟考した末、彼女の『お願い』を受ける事にした。

 理由はもちろん、自分の保身の為でもあるけれど……

「使う魚やなんかは俺に一任してくれるんですよね?」

「ああ、それはもちろん。プロの仕事に口出ししようなんて思わないからね。とにかくお金に糸目は付けないから、最高の料理を作って欲しいんだ」


 よし。これで最低限のハードルはクリアした。


「では、用意ができたらまた連絡します」

「うん。期待しているよ」


 ……ふう。

 通話を切って、大きな溜息をひとつ。

 いくら一度デートした仲とは言っても、やはりヤクザの令嬢と電話をするなんてのはそれだけで神経を使う。


 そして、それ以上に――

 

 これから俺がやろうとしている事が、本当に正しい回答なのか。それを考えるだけで背筋が凍る。

 

 それでも――


 俺はやらなくちゃいけない。

 保身の為という事も、当然あるけど。

 それと同等に、谷岡女史の。あの不器用なしっかり者の令嬢の、心を救ってあげる事ができるのはきっとこの策だけだろう。

「ぃよしっ!」

 自分の頬を両手でパンと叩いて気合いを入れ直し、立ち上がる。

 向かうは豊洲市場。

 持っているツテをすべて使ってでも、望みの魚を仕入れなければいけない。


 俺と彼女を、救う為に。

 あと見た事の無いヤクザのじいさんも。


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