第6話 男と男の約束

「お兄ちゃん、この問題は?」


「……今国際機関なんて意味ないから詳しいこと覚えなくてもいいよ」


「それは適当すぎだってば」


 太陽が昇っている間に勉強をやってしまおうと、史と2人で机に向かっていた。


 時折ふみから聞かれることに答えつつ、俺も自習をしていたら、ふいにドンドンと庭に面した窓がノックされる。


 家庭菜園の世話をしていた母さんがなにか用事でもあるのかなと思って視線を向けると……。


「父さん!?」


「え、お父さん!?」


 俺と同じタイプの逆三角形のゴーグルをつけ、バンダナを口元に巻いた白衣姿の男性が窓に寄り掛かっていた。


 顔は隠れているが、見間違えるはずもない。


 一週間に一度帰って来られればいい方なぐらい隔離施設に詰めっぱなしの父親、天津賢志さとしだった。


 史の薬が奪われた事を伝えたのはつい昨夜のことで、その際出来る限り早く帰ると言ってくれたのだが、まさか次の日の昼間に帰ってきてくれるとは思ってもみなかった。


 しかも、たったひとりであるところを見れば、護衛も居ないらしい。


 あまりにも無茶苦茶だった。


「史、こっちに!」


 父さんが窓越しに史を呼ぶ。


 いつも帰って来た時に行う診察をしてくれるのだ。


 俺は急いで立ち上がると、LEDライトとスプーンを取りに台所へと走る。


 俺が帰ってくると、既に史の問診は始まっており、ガラスを挟んでいくつかやり取りをしていた。


 そんな史にスプーンを手渡し、俺はライトを点けて出番を待った。


「史、口の中を見せて」


 父さんの指示通りに、史は口を開けてべっと舌を出すと、スプーンの背で舌の根を押さえる。


 俺はそんな史の喉がよく見える様に口の中をライトで照らす。


 父さんは窓ガラスに顔を押し付け、何度も角度を変えて色んな方向から史の喉を視る。


 母さんはそんな父さんのために被っていた帽子と手を使って必死に影を作った。


 しばらくそのままじっとしていると、「よし」と言われたのでライトを消してポケットにしまう。


「暦、悪いがちょっと触って確かめてみてくれ。いつも見てるからどこを触ればいいか分かるだろ?」


「ああ、うん」


 分かってはいるが、素人の自分が触って何か分かるものだろうかと心配の方が先に立つ。


 とはいえ戸惑って何もせずにいるなんて選択肢があるわけもなく、俺は覚悟を決めた。


「史、ちょっとごめんな。痛かったら言って」


「ん」


 史は頷くと、俺が触りやすいように襟ぐりを開け、長くて量の多い髪の毛を束ねて持ち上げる。


 日焼けどころかシミ一つない真っ白なうなじが顔を覗かせ、意味もなく鼓動が高鳴っていく。


 そんな事を考えている時ではないことは分かっていたが、綺麗だな、なんて感想を抱いてしまった。


「じゃ、じゃあ」


 咳ばらいをしてから史の首筋へ手を伸ばす。


「んっ」


 首筋をちょっと強く押した瞬間、史の体がビクッと固くなる。


「強い痛みあり」


 窓越しに父さんがそう言ってくるが、史は我慢しているのでそのまま手を動かし、今度は顎の下あたりを探る。


 すると、そこに大きなしこりを感じた。


 その事を父さんに伝え、更に耳の後ろや後頭部と首のつなぎ目辺りも探っていく。


 こちらにも、イボのようなしこりや膨らみをいくつも感じた為、それも全て報告した。


「……よし、もういいぞ。やっぱりだいぶ炎症を起こしてるな。最近無理しなかったか?」


「……ちょっとだけ」


 ちょっと、というのはかなり過少報告だろう。


 長い時間、充電のために発電機を回し続けたのだから。


 でもそういうのも父さんはきちんと分かっているらしく、その半分にしなさいと返して診察は終了した。


 父さんはポケットから紙を取り出すと、窓を机代わりに何か書いて母さんに渡す。


 こちらからは真っ白な裏面しか見えなかったが、恐らくは処方箋だろう。


「よし、終わりだ。父さんお昼の時間に抜けて来ただけだからごめんな二人共」


「お父さんが謝る事ないよぉ」


 診察が終わっても、史と父さんは窓ガラス越しに話す。


 ……話したくても話せないから。


 隔離施設で勤務している父さんは、一応防護服を着て患者たちの治療を続けている。


 しかし、常に防護服を着ているのは不可能で、3時間置きには脱いで休憩しなければ体力的にもたない。


 基本的に致死率99%と言われるルインウィルスは空気感染しないため、父さんがそれにかかる可能性は多分ないが、それ以外のウィルスだって沢山ある。


 そして毎日のように様々な患者が運び込まれて来る隔離施設で働いている父さんは、そういったウィルスにずっと晒されているのだ。


 だから、史にだけは、免疫抑制剤で抵抗力が極端に落ちてしまっている史とだけは、直接話すことも触れ合うこともできなかった。


「ごめん、父さん。俺がもっときちんとしてれば……」


 俺が盗られなければ、父さんにこんな強行軍をさせる必要も無かったのにと後悔するが、それでも父さんは笑い飛ばす。


「盗ったヤツだけが悪いに決まってるだろう。気にするな暦」


 ゴーグルもバンダナも取らないままそう言い残すと、それじゃあと言って背を向ける。


 医者である父さんを必要としている人はまだまだ居るのだ。


 ほんの一瞬、こうして帰ることが出来ただけでも奇跡のようなことだった。


「待って父さん。俺が送る! 自転車だろ?」


 隔離施設とこの家は8キロほど離れている。


 自動車での移動なんて出来るはずはないから、恐らくは自転車を必死に漕いで帰ってきたはずだ。


 これからもまた自転車を漕いで隔離施設に帰り、そこから防護服を着て治療だなんて、あまりにも無茶が過ぎる。


 それだけ史のことが心配だったのだろうが、父さん自身の体のことも気遣って欲しかった。


「……悪いな。頼む」


 父さんもそれは自覚していたのか、少し考えた後ですぐに頷いてくれる。


 俺はその言葉を聞いた傍から用意をするために飛び出した。






 俺の準備に多少時間が必要だったため、それならと急遽食事もこちらで食べることになったのだが、父さんは座りもせずほとんど飲み込むようにしてシチューをかき込んでいた。


「いや、久しぶりに美味しいものを食べた。ありがとう冴子」


 父さんが、皿を母さんへと返す。


 母さんがゴーグルも口元を覆うハンカチも外しているのは顔を見せたいからだろう。


 自分の両親がそういう繋がり見せて来るなんて、パンデミック前だったら気持ち悪いとか言ってたんだろうけど、今はそんな事思うはずがない。


 そういう繋がりを確認し合って何が悪いと今の俺は感じていた。


「ええ、どういたしまして。それじゃあ……体に気を付けてね、賢志さん」


「冴子も」


 夫婦であるが故のアイコンタクトで別れを済ませた父さんは、俺の方へと向き直る。


「じゃあ、頼んだぞ」


「ああ、十分で行ってやるよ」


 俺はリュックサックを体の前に着けて自転車に跨る。


 父さんは荷台に乗ると、俺の両肩をしっかりと掴んだ。


 準備が出来たことを理解した俺は、地面を蹴って最初から全力で自転車を漕ぎ始める。


「おぉ、速い速い」


「だろ」


 車も無ければ人もいない。信号機だって一切点灯していないアスファルトの道をひたすら走る。


 体が酸素を求め、呼吸は次第に荒くなっていく。


 心拍数はどんどん上がっていき、熱い血液がグルグルと体の中を回り始めるのが感じられる。


 急ぐあまり車体が左右に揺れるが、無理矢理力で押さえ付けて疾走を続けた。


「……お前も頼もしくなったなぁ」


 ぜーはーぜーは―と音を立てて呼吸をしている為、返事をする余裕はない。


「本当にいい息子を持ったよ」


 俺はいい父親を持ったよと心の中で返しておく。


 実際、父さんはとても誇らしい。


 ……まあ、面と向かって言うのは恥ずかしいけれど。


「都会なんかは、家族で食料を奪い合ったり殺し合いまであったらしいからなぁ……」


 父さんが言っているのはパンデミック初期の頃に起こったことだろう。


 東京などを始めとした大都市では深刻な物資不足が起き、最終的にはわずかな食料をめぐって殺し合いにまで発展したのだ。


 想像もしたくないが、家族間でもそういった殺し合いは起こっただろう。


 しかもそれが尽きれば今度は地方へ向かって逃げ出し始め、地方の人がそれを拒絶。そこでもいくつもの問題が起きていた。


 俺が知っているものだと、東京から逃げて来る避難民の列に車で突っ込んで何十人もひき殺したという信じられない事件まであった。


 そんな世界の中で、俺たち家族はこうして全員が生きていられる。


 いがみ合わずに助け合っていられる。


 それはとても幸せなことだった。


「これからも頼りにしてるぞ。母さんと史を守ってくれよ」


 父さんは患者を守るために滅多に家に帰れない。


 他人を守るために大切な存在を守れないなんて歯がゆくてたまらないだろう。


 その気持ちを汲み取って俺は――、


「もちろっ……んだっ。当然っ!」


 息も絶え絶えになりながら、それでも意地で怒鳴り返す。


 面と向かっては気恥ずかしくて言えないし、後から思い出したら確実に身もだえするだろう。


 それでも、男と男の約束とはこういうものなのかもしれないなんて感じていた。

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