第3話 他人は冷たく、家族は温かい

 無駄とは知りつつも俺は警邏中の自衛官へ被害を訴えてから帰路についた。


「ただいま」


 玄関を開けて上がりがまちに腰を下ろすと、


「お帰り」


 すぐさま母親である天津あまつ冴子さえこが出迎えてくれる。


 肩に届くくらいの髪を今は後ろでひとつにまとめ上げ、優しそうな眼差しと、いつも笑顔の形を崩さない口元が特徴の、柔かい雰囲気の女性だ。


 パンデミック前はもっとふくよかでお好み焼きにかけるソースのような顔をしていたのだが、今はだいぶ痩せてしまっている。


 本人は、お父さんに惚れ直してもらったからいいのよ、なんて言っているけれど、無理しているんじゃないかと少し気になっていた。


「ごめん母さん、盗られた」


「まあっ」


 謝りつつも、俺は残った薬を床に置く。


 しかし母さんはその薬よりも先に俺の顔に手をかけると、ハンカチとゴーグルを奪い取ってしまった。


「……怪我はない?」


 パンデミックが起きてから、直接的な方法で殺害するような事件は減っている。


 これは返り血を浴びてしまったら、かなりの確率で殺害した人間の持っているウィルスを貰ってしまうというなんとも皮肉な理由から来るものだった。


「ないけどさ。先に薬……」


「薬も大事だけど、私は暦も大事なのよっ」


 いつも優しい母さんは、パンデミック後は輪をかけて優しくなったように思う。


 大変な時だからこそ意識的にそうしているのだ。


 外でうんざりするような人間の汚い部分を見せつけられた後では、それが本当にありがたかった。


「……はい」


「分かったらよろしい。早くシャワーで体を洗って来なさい。史には私から言っておくから」


 パンデミックが起きて、水道もガスも電気も一旦は止まってしまった。


 それによる二次災害はとんでもないものになってしまったため、政府が急ピッチで上下水道とガスだけは復旧させたのだ。


 それにより衛生面は辛うじて改善されていた。


 とは言っても、これから入るのは冷水シャワーだが。


「あ、史には俺から説明するから」


「そう? じゃあジャケットなんかの処理はお母さんやっておくわね」


「ありがと」


 俺は礼を言いつつジャケットやゴーグル、口に巻いていたバンダナなどを手渡す。


 ジャケットやゴーグルなどを手作業で拭くのは結構疲れる作業だから本当は自分でやるべきなのだろうが、走り回った今日くらいは甘えさせてもらおう。


「あ、父さんには……」


「いつもの時間に連絡だからまだまだ。そういう心配はいいから」


 色々と悪いかなと思ってのことだったのに、しっしっと手で追いやられてしまう。


 俺はもう一度礼を言ってから風呂場へと直行したのだった。






 鏡を見て風呂上がりの顔を確認する。


 ここ数カ月間よく外に出ていたせいか、ゴーグルの形に日焼けしてしまっていて少し間抜けな感じがするが、それ以外は平均点を取れていそうな顔が俺を睨み返してきた。


「傷はないな、うん。……しっかし、変な顔になってるなぁ」


 目つきはきりっとして、髪の毛は少し長め。唇は一文字に引きしばられ、日焼け跡さえなければ精悍な顔つきとか言って誤魔化せそうな顔立ちだと思う。日焼け跡さえなければ。


 まあ、無い時でも人生で告白なんてされた経験なんてないけど。


 ……バレンタインは母さんと妹の史と幼馴染の千里ちさとから毎年何かしら貰っているから完全な負け組ではない……はずだ。


 いかん、なんか悲しくなってきてしまった。


「よし、史の所に行くか」


 わざわざ声に出して踏ん切りをつけなければ、心がもちそうになかったなんてことはない。


 俺は使ったタオルを洗濯カゴの中に放り込んでから二階へと向かったのだった。






 階段を昇ると、ウィンッウィンッ……とリズムよく機械的な音が聞こえて来る。


 音の発生源は、二階に並ぶ三つのドアの内のど真ん中。


 二つ年下で15歳になったばかりの妹、史の部屋だった。


 俺は彼女の部屋の前にまで行くと、コンコンッとノックを二回してから、


「ふ~み~、ただいま~」


 と声をかけた。


「おにっ……ふぅっ、ちゃんっ!」


 返事が聞こえると同時に機械音もやむ。


 それからワンテンポ遅れて「わひゃっ」なんて可愛らしい悲鳴と、ドスンバタンと騒がしい物音が聞こえて来る。


 扉越しでよく分からないが、何かにつまづいて転んだのだろう。


「おーい、入るぞ~」


「あいったぁー、んー」


 悲鳴なのか返事なのかは分からなかったが、一応了解らしきものを得てから扉を開ける。


 すると、自らの髪で出来た絨毯の上で、脛を抱えて転がりながら身もだえする美少女の姿が目に飛び込んで来た。


 ……なんか色々と残念過ぎる気がしないでもない。


「史~、大丈夫か?」


「だいじょばない……」


 床に倒れた足こぎ式発電機とティッシュボックス大の蓄電池。


 その真ん中くらいで倒れている史。


 部屋の散らかり具合から察するに、足こぎ式発電機を使って一生懸命充電し、体力を消耗してふらふらになっているのにも関わらず、急いで俺のことを迎え入れようとして転倒。


 その際、蓄電池で脛を思い切り強打した。


 ……といったところだろう。


「なんだ、うちの妹天使じゃないか」


 思わず声に出して呟いてしまったが、痛みを堪えている史には聞こえなかったようだ。


 俺はとりあえずといった感じで史の両脇に手を突っ込んで持ち上げると、そのまま部屋の端に設置されたベッドにまで持って行って座らせる。


「持ち方~」


 赤ちゃんを高い高いするような持ち方では不満だったらしい。


 じゃあお姫様だっこでもしろというのだろうか。


 それはそれで悪くはないが、何となく気恥しい。


「見せてみろ」


 ほっぺの風船をつついて破裂させてからと思ったのだが、「ぷひょ」っと漏れた声に思わず吹き出したら、軽く猫パンチをされてしまった。


 咳ばらいをして気を取り直してから脛を確認する。


 ハーフパンツから伸びる綺麗な足には青あざひとつ付いておらず、多少大袈裟な反応をしていただけだと分かった。


 アレルギー性の喘息を持っている為、元々史はあまり外に出て遊んだりできなかったのだが、それで痛みに対する耐性が低いのだろう。


「大丈夫みたいだな」


「……もうそんなに痛くないし」


「そっか」


 俺は立ち上がってカラスの濡れ羽色に艶めく史の頭をポンポンと軽く叩くと、史は大きくぱっちりとした目を細めて嬉しそうに笑う。


 人形のように整った顔立ちと平均より一回りほど低い背も相まって、思わずガラスケースに入れて床の間にでも飾っておきたくなるほど愛らしかった。


「ええっと……」


 ……なんて考えているのがバレたら、幼馴染の千里からシスコンだなんだと罵倒されそうだったので、急いで頭の中で話題を探す。


「そうだ。俺、史に謝らないといけないんだった」


 話題は簡単に見つかった。


「なに?」


 俺のことをじっと見つめて来る史のくりくりとした瞳を見つめ返していたら、もっと気を付けて自衛官の所に引き返していれば薬は奪われなかったかもしれないのにと後悔だけが湧いてくる。


「ごめん。帰りがけに俺こけちゃってさ。薬の包装破いてダメにしちゃったんだ」


 さすがに襲われたなんて言ってしまったら心配させてしまう。


 だから俺は転んだ原因と、そこから何があったかを黙っていることにした。


「…………」


 史は自分の生命線をダメにしてしまった俺に、冷たい視線を向けてくる。


 ただ、彼女の表情的に、薬をダメにしたことに対して不満を持っているのではなく……。


「もう、お兄ちゃんってば」


 唇の先を尖らせて、少し拗ねた感じの表情を作る。


 どうやら嘘と見抜かれてしまったみたいだった。


 史はしょうがないなぁって感じでため息をつくと、どのくらいだろと呟きながらベッドを降りる。


 その足で転がっている蓄電池の元まで行き、側面についているボタンをポンッと押した。


「まだ2割くらいかぁ」


 蓄電池の側面に付いた電池マークのメーターが2目盛りを示したのを見て、史はがっくりと肩を落とす。


「もう2割だって。凄いじゃん」


 残念そうに史は言っているが、重たい発電機を結構な速度で30分以上漕ぎ続けてようやく1割ほど溜まるのだ。


 ということは、俺が出かけている間はほとんど漕ぎ続けていたことになる。


 史の体がさほど強くない事を鑑みても、十分すぎるほどだった。


「でも、最低でも半分は越えないと色々使えないし~……」


 ランタンやLEDライト、専用の湯沸かし器、扇風機、ミシン、トランシーバー、電気毛布等々、蓄電池を使って動かすことのできる物は使えれば生活がかなり楽になるものがたくさんある。


 史が充電していた小型の蓄電池を満タンにした上で、それを使って大型のポータブル電源を充電すれば、洗濯機だって動かせるのだ。


 ただ、それらはある程度電力がたまっていなければ使えない物ばかりだった。


「映画だって視られないでしょ?」


 確かにポータブルDVDプレイヤーで視る映画は貴重な娯楽だ。


 しかしそれらが今とどんな風に関係あるのかと思っていたら……。


「私も失敗しちゃったからおあいこね」


「いや、おあいこって……」


 なるほど、そう繋がるのかとあまりの強引さに苦笑せざるを得ない。


 薬と充電不足は天秤にかけられないほどの差が存在する。


 それでも史は俺の失敗とそれが等価だと言いたいようだった。


「おあいこなのっ、いい?」


「……わかった」


 俺は基本妹には逆らえないのだ。


 いくら違うと言っても別の方法で納得させられてしまうだろう。


 それなら素直に受け入れるしかなかった。


「ありがとな」


「どういたしましてっ」


 史のすまし顔を見ながら、俺は軽く肩をすくめたのだった。

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