第1話 薬

「金は相場の倍でも払う! 頼むから売ってくれよ!」


 俺が薬局のガラス戸を押し開けた瞬間、怒鳴り声が耳に飛び込んでくる。


 店内を大きく仕切っているカウンターに身を乗り出した男性が、受付の女性に頼み込んでいるのが見えた。


 二人は一様に、三角形に折ったハンカチで顔の下半分を覆い、目にはスキー用と思しきゴーグルをかけている。


 普通ならば異様すぎる格好なはずだが、今現在ならばまったくおかしくはない。


 パンデミックが起こってしまったこの世界では、口元と目元を防護しないで人と会う方があり得ないのだ。


「ですから、医師からの処方箋が無ければどんな薬であろうとお売りすることはできませんっ」


「そう言わずにさぁ。風邪薬だよ? ちょっとくらいいいじゃないか。こっちだって困ってるんだから」


「規則ですのでお売りすることはできません」


 女性はきっぱりと男性の要求を突っぱねたところで、俺の方へと視線を向ける。


「いつものですか?」


「あ、はい」


 俺が頷くと、女性はすぐに店の奥へと引っ込んで行く。


 月に一度薬を買いに来ている俺の事を覚えてくれていたのだろう。


 まあ、俺の顔というよりは……。


 チラリと背後のガラス戸を振り向くと、うっすらと自分の影がそこに映りこんでいる。


 逆三角形の大きなレンズのダイビングゴーグルに、花柄のバンダナで口元を覆い、こげ茶色のダウンジャケットとブルーのジーンズを履いており、顔の部分で見えるのはちょっと垂れ気味な目元だけ。


 痩せ型で身長は中の上程度。髪型も奇抜な形はしておらず、きっとバンダナとゴーグルを外せば俺とは気づかれないだろう。


 俺は女性の背中を眺めながら、ポケットから折りたたんだ処方箋を取り出し、広げてカウンターに置く。


 後は薬を持ってきてもらったら精算を済ませるだけなのだが、先ほどまで怒鳴っていた男性が、今は黙りこくって俺の手元をじっと見つめて来ていてひどく居心地が悪かった。


「はい、お待たせしました。いつものお薬30日分です」


「ありがとうございます」


 女性は薬の入ったカゴを、男性とは俺を挟んで逆側に置く。


 それから慣れた手つきで処方箋を受け取ると、さっと目を通してから胸元から取り出した印を押してからファイルに綴じた。


「それじゃあお会計ですけど……」


「はい、ちょうどを用意してきています」


 俺は懐から1000札紙幣を9枚取り出して女性に渡す。


 薬30錠に9000円は、数年前ならばあり得なかっただろう。


 しかし保険制度が破綻してしまったこの世界では、薬を買うためには全額負担しなければならなかった。


「1、2……はい、確かに受け取りました」


 ゴム手袋をした手で紙幣を数えた女性は、紙幣をレジではなく奥にあるガラス台の上に一枚一枚広げて乗せる。


 紫外線で消毒を行う装置だ。


 人の手に渡ったお札は、どんな菌が付着しているのか分かった物ではないから、こうして一度殺菌してから受け取る。


 これも当然の処置だった。


「それではこちら、お薬です」


 女性は錠剤のシートが入ったカゴを、袋に入れずにそのまま突き出して来る。


 袋なんかないから、俺もこのまま受け取ってジャケットの前を開く。


 腹部に着けて来たポシェットの中に仕舞う為だが、その準備をしていると、横から男性が口を挟んで来た。


「おい、薬があるじゃないか。なんでそいつには売るんだ」


「処方箋があるからです」


 女性がにべもない口調でぶった切ると、鋭い目つきで男性を睨みつける。


「しかもその薬は風邪薬とは真逆の物で、あなたとはまったく関係のない薬です。いい加減にしないと警備を呼びますよ」


 パンデミック後、日本では全ての経済活動が政府管理下に置かれた。


 それはこの薬局も例外ではなく、この周辺には銃を所持した自衛官が常駐している。


 それを呼ばれてはかなわないと思ったのか、男は両手をあげて「分かった」と言い、それまでの態度が嘘のように大人しくなると、薬局の外へ出て行った。


「……ああいうひと、多いんですか?」


「ええ、まあ」


 その後に続く長い長いため息で、彼女の苦労が知れる。


 恐らくは彼ひとりではないのだろう。


「……いつもありがとうございます」


「いいえ。それよりふみちゃんの調子が少しでも良くなるといいですね、こよみくん」


 女性の口から俺と妹の名前が出てくる。


 先ほど言わなかったのは、やはり男のことを警戒してのことだろう。


 その気遣いに心の中で感謝を返してから一礼する。


「はい。それじゃあ失礼します」


「お大事に~」


 そして女性の慣れ親しんだ挨拶に背中を押され、俺は薬局の外に出たのだった。






 薬局から出ると、車が10台は収容できそうな大きな駐車場の端に、幌のついたトラックとその傍に立つ自衛官の姿が見える。


 それに向かって会釈をしつつ、彼らとは逆の方角へ向かって歩きだす。


 自衛官の立っている方角へ進み、道なりにまっすぐ行けばパンデミックのために小学校を改築した隔離施設があるが、今日はそちらに用事などないため家路を急ぐことにする。


 しばらく早足で歩いていると、何故か正面に先ほどの男が待ち伏せているのが見えた。


 自衛官の居る所に逃げようかとも思ったが、過剰な反応をして下手に刺激してしまっても怖い。


 結局俺は、警戒しながらも歩いていくしかなかった。


「やあ、君」


「……なんでしょうか」


 周囲はブロック塀や生垣など、民家が並んでいる住宅街だ。


 しかし、そこに人が住んでいるかどうかは分からない。


 何せこの日本は60%も人口が減ってしまっているのだから。


「君、さっき薬買ったよね」


 もしもバンダナとゴーグルが無ければ揉み手をしそうなほどの笑みが見えたかもしれない。


 男は喜色悪い猫なで声で訊ねて来た。


「買いましたけど、さっきの言葉聞いてましたよね? この薬は風邪薬なんかじゃないって」


「いやぁ、それは聞いてたけどさ。一応目で見て確認しないと分からないじゃない」


 一瞬、目の前で薬の名前を確認させれば理解するだろうかと考えるが、やはり無駄だろうと改める。


 こういう輩は自分の信じたいことしか信じないのだ。


「今俺が持っているのは免疫抑制剤です。分かりますか? 抑制するんです。アレルギーなんかの治療に使う為の薬です。風邪の時に使えば逆にこじらせて、下手すると死にますよ」


「うんうん、分かった分かった」


 分かってなどいない。


 分かっているならにじり寄ってなど来ない。


 俺はポシェットに付けた、小さな折り畳みナイフの事を意識せざるを得なかった。


「なあ、さっき君は9000円も払っていただろう? 2倍……いや、3倍で買い取らせてもらうよ」


「だからこの薬は必要なんです。あなたが持っても意味なんてないんです」


「そんな事言っちゃって。実は違うんだろ?」


「本当です! だいたい薬の売買は法律で禁止されてるじゃないですか」


 薬どころではなく、ほとんどすべての物を金銭でやり取りする行為が禁じられていた。


 金を使えるのは政府直轄の店だけ。


 ……まあ、そんな法律を律儀に守っている人など誰もいないけれど。


 政府から配給されるわずかな食料だけで生きていけるほど人間は便利な体をしていない。


「今から薬を見せます。きちんと名前を確認してください」


 俺は手のひらあげて男を制止すると、もう片方の手で腹部を探る。


 最悪、1シート10錠くらいなら奪われてしまっても命を無くしてしまうよりはマシだ。


 幸いなことに、使用者が激減した免疫抑制剤は古ささえ我慢すれば在庫は大量にあるのだから。


 ポシェットからシートを取り出すと、目の前で割って、薬名が書かれている部分を男の眼前へとかざす。


「薬の名前だけ見せられても分からないなぁ」


「だったらこの二錠をあげますから自分で確認してください。そして確認したら二度と俺に関わらないでください」


「でもねえ、私は全部欲しくてねぇ」


 ついに男の本音が漏れる。


 男は薬だから欲しがっていた。


 薬だったらなんでもよかったのだ。


 きちんと症状にあった飲まなければ意味がないどころか危険なのにもかかわらず、防衛本能が暴走して薬というだけで欲しているのだろう。


 もしくは、売って金にするか。


 前者ならコイツ一人だけ犠牲になって終わるが、後者なら飲んだだけ犠牲者が増えてしまう。


 免疫抑制剤。つまり普通の風邪でも致命的な死病へとなってしまうのだ。


 しかもウィルス性の病気に関する薬が枯渇している現状では、助かる可能性さえない。


「だから、免疫抑制剤なんです。下手すると死にますよ」


「ああ、そう」


 俺が後ろに下がるのに合わせて男も歩み寄って来る。


 自衛隊の所にまで走って戻れるか、そう考えた瞬間――。


 後頭部に重い衝撃を受けて、俺の体はよろめいた。

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