第43話 幸せを定義し直す時間

 九時半のミーティングが始まる。生活にメリハリをつけ、入院して落ちた機能を回復するために那帆はデイケアにいる。しかし回復して、自分がどこに向かうのか那帆はわからない。一日八時間、ピアノに向かえるのはいつになるかわからない。

 十時になるとデイケア棟では、デイケアのプログラムと作業療法が始まる。その日のプログラムは買い物に出かけるものだった。どちらも強制参加ではない。

 那帆は窓際の席に座って、雑誌を机の上に置いていた。横の机では日高明盛がその日もなにやらパソコンに向かい、仕事をしていた。しばらくしてから那帆の横に、作業療法士の桑田が座る。二人はしっかりと挨拶をする。

 去年、大学を卒業したばかりの桑田は、物静かな感じだが、言うべき事は言えるタイプだ。目に温厚な光が宿っていながら、少しクールな感じの顔つきをたまにする。去年は仕事に慣れずにおどおどしていたが、今年になってからは落ち着いて患者と向き合うようになっている。

 那帆は齢の近い林と桑田に親近感をもっている。すでに子供を産んでいる林には憧れを持っていて、桑田には何でも話せる大学のクラスメイトのような感覚を那帆は持つ。

 デイケアのほとんどのメンバーが買い物に行ったので、デイケア棟は閑散としている。その日は那帆以外に作業療法に参加する患者はいなく、病棟は静かになった。

「今日は三人だけになっちゃいましたね。いいですか?」

「大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」

 桑田が問いかけ、那帆が返答する。デイケア棟のミーティングルームにいるのは、那帆と桑田、それに明盛だけだ。

「寒くなってきましたね。体調はどうですか?」

 まずそれを桑田は気づかう。

「風邪とかは大丈夫なんですが、少しだるいです」

「そうなんですか? 辛いなら休憩室で休んでもいいですよ」

 那帆はよく休憩室で休む。和室でも休めたが、寝顔を見られるのが嫌だった。休憩室は誰にも寝顔は見られない構造になっている。

 午前三時から起きている那帆は、この時間になるともう眠い。よくわからないだるさがだんだんと溜まっていく。薬のせいかなと思うが、春乃は病気のせいだと説明している。

 とにかく那帆はだるかった。

「今週もつまんないなぁ」

 女性週刊誌を眺めながら、那帆はそう呟く。いつ読んでもつまらないのだが、他に雑誌がなくて広げている。

 那帆はなんでもつまらなく感じてしまう。目の前に起きている事が、本当に面白い出来事なのかどうかわからなくなっている。

 午前十時を三十分ほど過ぎてから、一人だけ作業療法の患者がやってきた。遅刻というわけではない。作業療法の時間はマイペースで決めていい事になっている。

 後になってから来た患者は、野沢里穂という女性だ。那帆の心が弾む。

 里穂も那帆と同じ統合失調症だ。高校時代に発症したのだが、症状はそんなに重くはなかった。二十代半ばからは短時間のパートの仕事をして、そこで知り合った男性と結婚した。今は専業主婦で、時々作業療法に顔を出している。

 結婚生活も落ち着いてきた今、三十一歳になった里穂は子供をどうしようかと悩んでいる。

 子供は絶対にほしいのだが、胎児のために薬を一時的に断薬できるほどの体調になるか、それを医師と今見極めている。

 結婚をし、子供を育てるのが、里穂のなによりの夢だった。

「里穂さん、おはようございます。調子はどうですか?」

 那帆から声をかけていく。里穂は那帆の目の前に座る。

「最近はすごく元気よ。先生も今度断薬してみようかって、言ってくれたの。今の調子が続いたらの話だけど」

「本当ですか? 良かったですね!」

「うまくいくといいんだけどね」

 里穂の内心に不安がよぎる。断薬する薬は、今まで効果を感じてきた薬だ。

 那帆も里穂も幻聴が聞こえるというわけではない。それよりも妄想が強かった時期があったのだが、それも収まり、今はなんだか感情が鈍かったり、気がつくと一人で過ごしてばかりになる傾向がある。だから無理にでも人に会う時間が必要だった。

 里穂は編み物をしていく。手に結婚指輪が光る。

 那帆はその指輪は羨ましいが、結婚というものは意識していない。

「旦那さんとはどうなんですか?」

「普通だよ。喧嘩もするし、よく話もするし、よく二人で笑っている」

「幸せそう」

「大変な時もあるけど、幸せかな。結婚は絶対にしたかったから」

 里穂はそう言ってのろける。

「いいなぁ。いいなぁ」

 那帆ははしゃぐ。里穂の幸せを感じるのが楽しい。

「那帆はまだ結婚しないの?」

「どうだろう。人の幸せを聞くのは楽しいけど、自分は考えられないかな」

 那帆は首をかしげる。どうも結婚に憧れはあっても、何かしようと思わない。

「焦ってするものでもないから、那帆は那帆のペースでいいと思うよ。結婚してみて思うけど、別に結婚は全てじゃないし」

「そうですね。その通りです」

 うんうんと那帆は頷く。

「でも恋ぐらいはたくさんしたほうがいいのかなあ。あんまりした事ないけど」

 那帆は恋愛を少し考えてみる。けれども特別に恋愛が大事だとは思えない。那帆が一番大事に思うのは、やはりピアノだ。

「それもどうだろうね。下手な恋は心がおかしくなるだけだし」

 そういう冷静な目が里穂にはある。見かけの幸せに騙されないタイプだ。

 恋愛というものを那帆は更に考えてみる。だがどうもピンとこない。

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