第42話 二夜限りの恋
恋愛というものを那帆はほとんど知らない。ただ体の経験だけは一応あった。それは十月の程よい気温の日だった。国際コンクールに出られずに、帯広に帰ることが決まり、那帆は相当落ち込んでいた。完全に人生に絶望していた。
一人で自分の部屋にいて、ただ時間が過ぎるのを感じていたくなかった。
夕方から雨が降り出していた。その雨の中を那帆は、傘をさして歩き始めた。
着いたのは同じ大学の、古田という大学院生の部屋だった。ゼミの飲み会の後、何度か訪れた部屋だった。酒が駄目な那帆は、しらふで先輩らが熱心に音楽を語るのを聞いていた。
「藩じゃないか。どうしたんだ。病気だって聞いているけど、出歩いても大丈夫なのか?」
那帆は古田に連絡を入れずに押し掛けた。
「迷惑でしたか。彼女さんとかいらっしゃいますか?」
那帆は古田の顔を見ただけで、少し安心した自分に気づく。
「今は彼女なんていないよ。入るか?」
那帆は頷く。古田は那帆が濡れていないか確かめてから、部屋に招き入れる。
「コーヒーとミルクしかないけど、どっちがいい?」
「じゃあミルクで」
古田はキッチンでミルクを沸かしていく。部屋には物が結構あったが、きちんと整頓された部屋だ。那帆はここに来るたびに落ち着く自分を知っていた。
台所に立つ古田の背中が那帆は気になる。
那帆は古田に近づき、その体を後ろから抱きしめた。古田は固まり、じっとミルクが沸くのを見つめる。那帆は古田の背中に顔を埋める。那帆の冷えた体を古田は感じる。
「北海道に帰るんです、私。大学は休学します。でも復学できるかわからないです」
出場権がありながら、那帆が国際コンクールに行かなかったのを古田も知っていた。国際コンクールの出場権があったのは、大学では那帆だけだった。その那帆が体調をひどく悪くしているのは、キャンパスで一番の噂話になっていた。那帆と面識があった古田はむしろ事情をかなり聞いていた。
「私、たぶん精神的な病気なんです。怖いですか?」
那帆は堪らなくなって、手に力を入れる。
「馬鹿言うなよ。病気だって藩はエレガントだよ」
古田はじっと抱かれたままでいる。那帆の悲しみが背中いっぱいに広がるのを、古田は感じる。
ミルクが沸く。古田はコンロの火を消しても、まだそのまま動かない。
「抱いてくれませんか、先輩? 大学の思い出に」
那帆は言う。古田は即答しない。じっと考える古田と、涙が零れてきた那帆がいた。しだいに那帆は嗚咽を漏らす。
古田はとりあえず那帆を床の座布団の上に座らせる。古田は那帆にミルクを飲ませる。砂糖の入った甘いミルクだ。それを飲むと那帆は少し落ち着く。
「なんで俺なんだ? 俺でいいのか?」
静かに冷静に古田は声を発した。
「なんでかなんてわかりません。でも先輩に抱いてほしいんです」
二人は意識し合った事はない。あったとしても、それはピアニストとしてだ。
「私、実はまだ経験がないんです。いつか誰かにそうされるなら、同じピアニストが良くて」
ピアニストではない、女としての那帆の小さな夢だった。せめて叶えたい夢だった。
古田は浴槽にお湯を貯め、部屋を暖かくする。二人はあまり会話をしなくなる。そこまでで疲れきっていた那帆は、お風呂に入る気力もなかった。
那帆は憔悴した感じで服を脱ぐが、途中で手が止まった。
「ごめんなさい。脱がしてほしいです」
那帆は甘える。単純に甘えたい気持ちと、服を脱ぐ気力もないからだ。ピアノに意識を研ぎ澄ましていた頃の面影はなく、那帆は子供みたいに甘える。
古田は優しく那帆を裸にしていく。手を握り、風呂場へと導く。
気力がまるで沸かない那帆に代わり、古田が那帆の丁寧に体を洗う。そっと、摩るように古田は手を動かす。意気揚々とピアノを練習していた那帆はどこにもいない。
那帆にせがまれて、古田は那帆の髪も洗う。
「先輩、洗うの上手ですね」
「別れた彼女にしこまれたんだよ」
「先輩って、意外と女性に甘いんですね」
「男の基本だよ。女に甘くなるのは」
那帆が初めて味わう、甘ったるい時間だった。
その後、古田は那帆を小さな湯船に入れる。子供を見守るように、湯船で項垂れた那帆が、温まるを待つ。けれども心まで温められないのを古田はわかっていた。
やがて二人はベッドの上に横たわっていた。ときめきや贅沢な興奮はなかった。那帆の腰の下に、バスタオルが敷かれていた。
那帆のほうから少し起き上がり、古田の顔を覗き込み、キスをしてみる。きれいに歯を磨いた古田の口は味がなく、唇の触感は那帆の想像通りだった。
古田の手を那帆は自分の胸に導く。そのうち古田のほうからよく動くようになる。時間が経つと、古田が那帆に覆いかぶさる格好になっていた。
古田の筋肉に包まれる自分を那帆は意識していく。そうして僅かな時間でも全てを忘れようとした。国際コンクールも、ずっとピアノに向き合ってきた自分のこれまでも。
バスタオルに赤い染みが少しついた後、那帆は古田にしがみついて眠った。
二泊三日、那帆は古田の部屋にいた。でも甘美などではなく、むしろ虚しかったが、それでも那帆は落ち着いた。
古田の部屋で那帆が過ごしたのはその三日だけだった。那帆が最後にキスをしたのは、その時だった。古田はそれから那帆に頻繁に連絡をいれ、帯広へ帰る際も空港に見送りにきた。ただ二泊三日以来、那帆から求める事も、古田が求める事もなかった。恋の甘美な部分がなかった二人だからこそ、二人はわかり合えた。
那帆が求めなかったのは、東京を離れる事が決まっていたからだ。
「キス、したいな」
デイケアの喫煙所で那帆はふと思う。今、相手はいない。煙草ばかりふかす、臭い自分の口なんか、誰も愛さないだろうと思ってしまう。
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