第41話 奇跡と苦悩

 しかし男と女の関係になっていて、深い関係になれば、やはり我慢できない部分がでてくる。

 那帆の母は結婚前に妊娠してしまう。当時はまだ授かり婚に厳しく、二人は項垂れた。お互いの両親に隠せるものでもない。それでも那帆の母は命の鼓動をすぐに感じて、世間体は悪いが、この子は産まなきゃいけないと思った。

 しかし那帆の母の母、那帆の祖母に平手打ちを那帆の父はくらった。

「我慢もできないのに、夫や父親になろうとするな!」

 激しい説教を那帆の祖母はした。優しかった那帆の祖母が豹変したのは初めてだった。

「結婚は我慢と思いやり。そんな事もわからないでどうするの!」

 手をついて土下座し、那帆の父は平謝りした。那帆の祖父が止めても、那帆の祖母はなかなか怒りを静めなかった。

「私達の孫なんですからね。我慢と思いやりで、ちゃんと育てないと許さないから」

 鬼のように睨みつけながら、那帆の祖母は二人を許した。

「誠意を語るなら、我慢と思いやりなのよ」

 那帆の祖母は二人にそんな言葉を送った。すぐに二人は入籍する。

 出産まで家族は順調だった。那帆の母はつわりも思ったほどではなかった。

 しかし出産は難産になった。陣痛が始まっても那帆はなかなか子宮から出られない。十時間以上もかかって、那帆は産声をあげた。時間がかかったのに、その産声は元気だった。

 運命の分かれ道になったのは、出産した那帆が泣いた直後だった。那帆の母は大量出血をし、意識を失った。すぐに手術になったが、その途中で那帆の母の心臓が一度止まった。

 電気ショックによって、辛うじて那帆の母は生き延びた。手術が終っても、那帆の母はしばらく集中治療室に入る事になる。那帆が母に抱かれたのは、ずいぶん日にちが経ってからだった。那帆の母は娘を抱いて、涙が止まらなかった。

 当然のごとく、両親は那帆を溺愛した。甲斐甲斐しく世話をし、よく泣いた那帆を辛抱強くあやした。当時はイクメンなどという言葉はなかったが、那帆の父は育児も家事もできる事はなんでもした。

 赤ん坊の那帆は美しい音にもう反応した。テレビの雑音を嫌い、那帆の母が好んでいた音楽に反応した。特にクラシック音楽があると、よく眠る赤ん坊だった。

 自然と那帆の母は、那帆に音楽をやらせたいと思うようになっていく。

 それで選ばれたのはピアノだった。

 那帆のピアノの上達は驚くほど早かった。那帆が通ったピアノ教室の藤井は、吸収の早い那帆に舌を巻き、熱心に指導をした。小学校に入学する前に、那帆はもうクラシック音楽に挑戦するようになっていた。

 ピアノの発表会がある度に、那帆の母は手作りのドレスを作った。那帆の父は高性能なビデオカメラで那帆の演奏を撮影し、それをきちんとパソコンを使って保存した。

 両親が思う以上に那帆がピアノに情熱的になるのを見て、自宅でもピアノを練習できるようにと、両親は小さな家をローンで買う。きっと大学にも行きたがるだろうと、那帆の母は仕事をするようにもなった。母がいない間はそれなりに寂しかった那帆だが、ピアノさえ弾ければ、その寂しさは忘れられた。

 全ては那帆が国際コンクールの舞台に立つために、何人もの人間が奮闘してきたのがこれまでだった。那帆の夢の舞台のために、全ては積み上げられたはずだった。

 朝九時、那帆は帯広アウローラ病院のデイケアに向かう。

 五月まで那帆は体調が思わしくなく、何度か病院に入退院を繰り返していた。病状が日々変わり、なかなか安定しなかったためだ。

「今日も行きたくないな。家で寝ていたい」

 眠れないのに、那帆はベッドを恋しがった。

「これもリハビリだから、頑張りましょう」

 那帆の母は優しく諭す。

 病院に着くと那帆は受付からカードをもらい、デイケア棟に入っていく。デイケア棟のスタッフは誰も笑顔が素敵で、心から優しさを配る。那帆は何も言われた事はないけれども、ベテランの作業療法士の関や矢島は本当に説諭がうまい。なにより患者の声を聴く、傾聴ができる。

 デイケアに参加する患者のメンバーでは、もちろん苦手なメンバーもいる。けれどもそれは人間関係の合う、合わないでしかない。病気のせいか、那帆が考えつかないような行動をするメンバーもいる。でも大学でもそういう人間はいた。例えば音楽の練習に支障が出るまで、酒や恋愛にのめりこむ人間の事だ。その時の那帆は思ったのは、音楽でお金をもらえるようになるため、音楽のために生きたいから大学に入ったのではないかという憤怒に似た気持ちだった。

 那帆がデイケア棟で感じるのは、やはり音楽大学のキャンパスではないという、目を背けたい現実だった。

 何が不満とか、特別な理由があるわけではないが、那帆はデイケアにいたくない。

 自分が選んだ場所、憧れた世界ではないからだ。

「藩(はん)さん、おはようございます」

 デイケア棟の参加用紙に記入をすると、看護師の林がにこやかな笑顔を送ってくる。藩というのが那帆の苗字だ。林は那帆と同じくらいの齢のはずだが、年齢は不詳だ。もう結婚をし、子供が一人いるという。同じくらいの年齢で家族を作っているというのを那帆は意識してしまう。

 那帆は素直に林が羨ましい。

「おはようございます。林さん」

 那帆は挨拶をしっかりと返す。挨拶は生活の基本だと、カウンセラーの戸板がよく言う。だから那帆は挨拶だけは意識する。

「今日もしっかり、おめかししてきましたね」

 林は那帆のファッションと化粧を褒める。

「おめかしというか、大学では皆こんな感じだったので」

 大学では音楽だけではなく、誰もがファッションに気合いを入れていた。

「いい傾向ですね。頑張っていますね」

 穏やかで、返答のしやすい口調で林は接してくる。笑顔も那帆の胸に響く笑顔だ。

 ただのおしゃれなのに、頑張っていると言われる。那帆はなんだかその感覚がわからず、あまり嬉しくもならない。ただ病気になる前よりおしゃれをするのに億劫な気分も那帆にはあった。

 けれども那帆はおしゃれだけは譲れなかった。

 九時半のミーティングまで、那帆は早速喫煙所に向かう。デイケア棟に入る前に、病院の自動販売機で紅茶を買っていた。紅茶で喉を潤しながら、煙草を自由に吸う。生きがいではないが、今の那帆にはそれくらいしか楽しみがない。

 口が臭くなる。せっかくの洋服に臭いがつく。人に嫌われる。いい事などないのに、それでも煙草を吸ってしまう。

「こんなんじゃ、恋もできないなぁ…」

 那帆はため息を吐くようにそう思う。

「恋なんか、あんまりした事ないな」

 那帆はそうも思う。そしてあの日を振り返る。

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