第40話 憧れ

 煙草の煙は那帆のため息だ。ため息が部屋に充満していく。

「何か手伝う?」

 朝御飯の準備を始めた母を、那帆は手伝おうとする。

「それより気分が大丈夫ならお風呂でも入りなさいよ」

 昨夜、体調が悪すぎて、那帆はとてもお風呂に入れなかった。

 母が湯船にお湯を貯める。母はすっかり変わってしまった娘を思う。きっとピアノの邪魔になると、煙草なんか吸わなかったはずだ。毎日溌剌とした顔でピアノに向き合い、時にはあった苦悩も病気とは無関係なものだったろうと。那帆の母はどうしてもそれを思ってしまう。

 那帆も那帆の母も、まだこの状況に慣れていない。

 那帆はゆっくり湯船に浸かる。弾かなくなったピアノと、病気の事ばかり思う。だがいくら説明されても、回転が前よりずっと遅い頭で、よく理解ができない。

「今日も診察日だった」

 那帆は一週間おきに診察を受けている。担当医は去年から春乃だ。

 那帆から見た春乃は落ち着いた女性だ。平均的な春乃の体型は、那帆に安心感というか、憧れを抱かせていた。仕事に夢中な様子で、いつもなんでもメモをする春乃に、那帆は初めてキャリアウーマンとういう存在を感じた。

「あんなふうにはなれないんだろうな」

 春乃とはプロのピアニストとして、仕事やプライベートで出会ってみたかった。那帆はそんなふうに思う。

 十月は嫌な季節になったなと那帆は思う。国際コンクールに出たかったのに、海外に出国すらできなかった記憶が残ってしまった。

 七時ちょうどに家族三人は一緒に食事をする。

 八時に那帆の父は、那帆と妻に見送られて会社にいく。ごく普通のサラリーマンで、さっきからスマホに色々な連絡が入ってきている。仕事の事で頭がいっぱいで、娘のために病気の本を読む時間もなかなかない。それを那帆の父は娘から逃げていると恥じている。

 那帆の父は財布の中に那帆の写真を持ち歩いている。幼い頃と病気になった今の那帆の写真だ。那帆の父は今の那帆をどう愛し、何をしてやるのがいいか、よく考える。病気と向き合うために、現在の那帆の写真を持ち歩く。

 二十三年も生きてくれた、今も家にいてくれている。口にはしないが、那帆の父はそんな感謝を娘にする。

 那帆の父は会計事務所で働いていて、きちんと公認会計士の資格を持っている。那帆の母はその昔、銀行員だった。二人の結婚は合コンで知り合ったのがきっかけだった。数字の世界で生きていた二人は、出会った途端にスムーズな会話ができた。

「おまえらだけで、どっかいけよ。なんかむかつくな」

 合コンですぐ親密な話を始めた二人に、他のメンバーは嫉妬して、そんな事を言った。

 那帆の父はバーに那帆の母を連れて行く。かといって数字の世界の話など、仕事で疲れていて本当はしたくもなかった。那帆の父は昔話ばかりした。中学時代はゲーム少年だった事、高校時代は部活に明け暮れ、浪人してしまった事。大学時代は意外に真面目だった事。それらの事を当時の素直な気持ちを交えながら、那帆の父は丁寧に話した。

 那帆の母は真面目にその話を聞き、よく相槌をした。面白い話ばかりで、なにより昔の気持ちをさらりと表現できる那帆の父に好感を抱いた。

 二人はその日の帰り間際、自宅の電話番号を交換し合う。まだ携帯電話が普及してない、ポケベルというのがあったぐらいの時代だ。

 二人はならべく毎日、電話を楽しむようになる。電話代が結構な負担になった。今のように無料で電話はできなかった。そしてお互いに電話の時間を合わせないと、すれ違いになった。

 すれ違うほど、相手をよく思う。それは交際のきっかけになる。

 何度か二人だけのデートの後、二人は結婚を前提に交際を始めた。

「同棲とかしてみたいね」

 那帆の母はそんな提案をした。お互いに親からは自立していて、半同棲のようになり、もう一緒に暮らすのもいいかなと那帆の母は思った。

「うーん、同棲ってなんなのか、よくわからないから」

 那帆の父はそう言って渋った。

「一緒に暮らしてみて、初めてわかる事はあるし、それもいいかもしれないけどさ」

 那帆の母が同棲に憧れていたのを、那帆の父はよく聞いていた。

「同棲してから結婚しても、合わないところは出てくると思うんだ。そんな合わない事ばかりに気をとられるのは嫌だしさ」

 那帆の父はその時、真剣な眼差しだった。

「やっぱり同棲って、別れやすくならない? 結婚って重くて、財産分与とかあって、簡単には別れられないじゃない。そういうハードルがないのに、一緒に暮らしたくないな」

 那帆の父も一緒に暮らしたい気持ちはあった。でもそれを我慢した。

「要はさ、私と簡単には別れたくないって事だね」

 そう言って、那帆の母は小さな憧れを諦めた。

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