第39話 違う朝

 春乃がタイヤ交換を終えた夕方、会いたいと義博が春乃の家にやってくる。荷物が結構な量で、全て仕事の資料だった。甘い一時がほしかったが、春乃は病院で行っている治験について論文を書き、義博は顧客への見積もりを見直していく。

 お互いに仕事で気になる事があっても、守秘義務でなかなか話せない。

 それでも春乃の口は滑ってしまう。研修医の頃はなかったのに、春乃はどうも患者を自分の弟や妹、あるいは子供のように思ってしまう癖がある。患者との距離はしっかりとしなくてはいけなく、春乃も必要最小限の優しさしか見せないようにしているが、心はつい零れる。

「今、退院させた人ですごく気になっている人がいるの」

「どんな人?」

「まだ二十三歳で若い女性なんだけど、すごかった人なんだよね」

「すごかった? どんなふうに?」

「天才なんだと思う、その人」

「天才?」

 義博は春乃の話がいまいちわからない。春乃はどこまで言っていいか迷う。

「ねぇ。もし大学に受かってから、すぐに病気で北海道に来られなかったら、どうだった? せっかく受かったのに入学できなかったら」

 難しい質問を春乃はする。義博は渋い顔をする。

「ありえないかな。考えたくないし、現実を見られなくなる」

 やっとの思いで義博は言う。なんとなく札幌の大学を選んだが、義博は中学から勉強に勤しみ、私立の進学校で勉強漬けの高校時代を過ごした。義博は春乃が憧れたあの北海道帝王大学の出身だ。大学への憧れは相当なものだった。

「でもそういう現実もあるの。受け止めきれない現実に出会う事が」

「そんなの絶望するんじゃない?」

 春乃と出会うまで、義博は一人で北海道を愛してきた。テレビで見た北海道の映像に憧れ、大学時代に北の文化に触れ続けた。なんとなく選んだ北海道に義博は心底陶酔した。

 春乃の答えも同じだった。そんな現実など受け止めきれない。

「どういう人なの? その人」

 春乃は言っていいのか迷う。しかし義博が他人にこの話をべらべら喋るとは思わない。義博を信頼しきっている。それに春乃はずっと、その患者に希望を探している。

「その人、ピアニストなの。三歳からピアノを始めて、ずっとピアノに全力で取り組んで、音楽大学に入ったの」

 春乃が言いたかったのは、那帆の話だった。国際コンクールに出られなかった話まで春乃は義博に説明する。

 義博は言葉がない。現実にそんな事があるのに唖然とする。

「その人に何か希望はないか、探しているの」

 春乃は言う。しかし簡単な話ではない。やはり義博は答えを出せない。

 答えどころか、言葉すらない。

 十月がやってきていた。那帆が起きたのは、まだ午前三時だった。ゆっくりと朝まで眠っていたかったのに、目が覚めると頭が動き出す。病気になってから、勝手に何かを意識する頭が那帆は吐きたいぐらいに嫌いだ。

 寝床から起きる。もう眠れそうにない。自室からキッチンに行き、牛乳を沸かす。なんとかもう一度、眠りたかった。牛乳には砂糖を入れる。

 両親はまだ眠っている。外もまだ暗い。那帆は牛乳を片手に、リビングに行く。リビングの灯りを豆電球にする。眠りたい、休みたい。けれども頭は冴えていく。

 温かい牛乳を飲みながら、那帆はスマホとイヤホンでお気に入りの音楽を聴く。そのほとんどはクラシックだ。たまに気まぐれにポップスやロックも那帆は聴く。音楽の世界に入り込む事で那帆はリラックスできる。病気になってからもそれは変わらなかった。

 けれども病気になる前よりも、深く音楽に入り込めない那帆がいる。

「何のために生きているんだろ、私」

 那帆は呟く。リビングにはピアノが置かれている。いつからそのピアノに触らなくなったのか、那帆は忘れてしまった。

 ずっと愛し続けてきたピアノが、ずっと音を出さなくなっている。

 那帆はピアノが全く弾けなくなったわけではない。指は動くし、鈍ったが演奏の感覚は覚えている。下手な素人よりもずっと弾ける。だが那帆は那帆の音楽をもう弾けない。磨き上げた才能はあっという間に崩れた。

 精神の病気のせいで、もう体がついてこないからだ。

 いつも那帆は体を重く感じている。痩せているほうなのに、ずっしりとした感じだ。

 春乃からまだピアノは禁止されていた。退院後に一度弾いてみたが、頭を含めた体がまったくうまく動かなかった。そして弾くと体調が崩れた。

 朝がくる。母親がまず起きてくる。午前六時だ。

 那帆の母は那帆に煙草を二本、それとライターと灰皿を渡す。那帆は入院期間に煙草を覚えてしまった。ただ興味本位で吸い始めたのが間違いだった。

 もう慣れた手つきで那帆は煙草を吸う。あまりに那帆が喫煙するので、那帆の母は家では那帆の煙草を管理している。那帆の父は昔、喫煙していた。まだ那帆が幼い頃だ。だがいつも換気扇の下で吸っていたし、那帆と出歩く時は吸わなかった。

「虚しい…」

 那帆は母に聞かれないように呟いた。家の中に光が入ってくる。那帆が夢見た未来ではまだ大学院にいて、ピアノに熱中するために、忙しく出かける準備をする朝だ。

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