第38話 婚約
春乃は裸のまま考える。今がチャンスなのではないかと。座布団の上にバスタオルを敷いて、そこに座り、考えを巡らす。できるだけ自分の心に聞き、自分の心に素直になろうとする。
石田はベッドの上に起き上がったが、考え事をする春乃に声はかけない。じっと見守る。内省をする時間が人間にとっていかに大切かを、石田は春乃に教わっていた。
春乃はスマホを手に取る。もう三十一歳で子供との時間を削って生きている事、石田と確かに愛し合っている事、今が妊娠するチャンスに思える事を、まとまらない文章にする。
それを土方に送信した。
「子供作るならいつがいいの? 来年?」
「今かな? 今授かれば、三月で七カ月ぐらいになるから。今から十月ぐらいがちょうどいいのかも。十二月までに妊娠がわかれば、職場も色々と楽かも」
土方から返信がくる。今日から頑張りなさい。冬から春までは我慢して、来年の夏ぐらいからまた頑張ってくれると嬉しい。早く同居と入籍をしなさい。結婚式は小さくていいからやったほうがいい。でも子供は授かりものだから、変な遠慮はしなくていい。お幸せに。そんな事がまとまらない文章で返ってきた。
「妊娠してもいいみたい」
土方が背中を押してきた事で、春乃の喜びは何倍にもなる。
「ちょっといい? 話したい事があるから。まずは着替えよう」
石田の顔がなぜだか引き締まっている。促されるまま、春乃は服を着る。
服をきちんと着て、顔を洗った石田は、なぜか真剣に庭を見つめている。庭には何もない。手入れをする時間などないので、春乃は何も植えていない。
「なんかいきなりだから、いい言葉が見つからない。本当に俺でいいの?」
そう石田に言われて、春乃はきょとんとする。春乃は忘れている事がある。
「俺が春乃さんの旦那と、子供のお父さんでいいの? 後悔しない?」
まだ二人は婚約すらしていない。こういう順番を間違うのは春乃らしい。
「まだ付き合って、半年も経っていないけど…。俺は春乃さんが最高だけど」
春乃の顔が赤くなる。そして春乃は自分の心を確かめてみる。
春乃の心は晴れやかだった。
「間違う時は間違うし、石田さん…」
その時まで春乃は石田を苗字でしか呼んでいない。石田の名前を呼び直す。
「義博さんとなら、間違ってもいいです」
そう春乃は伝える。ひどく恥ずかしい。体を求め合う事よりも恥ずかしい。
「じゃあ…」
義博が春乃に少し近づき、じっと春乃の目を見つめる。
「いつまでも一緒にいてください。最後まで愛します。俺と結婚してください」
春乃の時間が一瞬止まる。そしてまた動きだす、春乃から自然と涙が零れる。
全てに絶望したあの夏から、癒される秋に季節は移り変わっていく。
「ふつつかものですが、よろしくお願いします」
春乃は涙を零しながら、丁寧にお辞儀をした。
先週、春乃はプロポーズをもらい、婚約したのだった。
義博とはそれから、スマホでずっと結婚の準備を話し合っている。お互いの両親へ挨拶を済ませたら、すぐに入籍して、春乃の家で暮らす事を決めた。お互いに過去のいらなくなった物は処分しだした。
「義博は異動とかないの?」
「ある人はあるけど、ない人はないかなぁ。でも春乃に合わせられるかはわからない。他の自動車会社の営業なんてできないし」
義博は広島県の福山出身だ。お城がある、鞆の浦の海がある町だ。なんとなく札幌の大学に入り、会社に命じられるがままに帯広に住んでいた。
「どうしても駄目なら、私が一人で子育てを頑張るよ」
「それは嫌だよ。何言っているの。子育てができないなんて、考えられない」
「義博さんはイクメンになりたいんだ」
「イクメン? 普通の父親だよ」
そんな話を延々と二人はしている。
義博は自動車の営業マンだ。系列の販売所がない地域に春乃が異動する事もあるだろう。そんな事まで二人は心配する。それでも二人は恵まれている今があるのを知っている。
春乃は帯広アウローラ病院でずっと働き、義博も帯広で働くのが理想だが、いつだってわからない人生だから二人は考える。
タイヤ交換は義博でもできたが、今の二人は時間がなにより惜しい。
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