第3章 ショパンの孫娘編

第37話 潘那帆

 三年前、二〇一五年の夏の終わり、那帆(なほ)は東京のマンションにあった自室で、一日の大半をぼんやりと過ごすようになっていた。音楽大学に通っていた那帆にとって、人生をかけたピアノの国際コンクールが間近に迫り、一日一日が大切な時間のはずだった。那帆の心には練習に明け暮れたい気持ちがあった。

 それなのに那帆は自室で、ただぼんやりと部屋の壁を見ているだけだった。壁には写真が何枚も飾られているが、それを見ていたわけでもない。

 那帆の体の奥から気力が沸いてこなかった。ピアノの事を考えれば、コンクールへの焦りや緊張ばかりが浮かんでくる。それなのに気力が沸かない。練習に明け暮れて、緊張する心を吹き飛ばせばいいと考えるが、気力が出ない理由やぼんやりしたい理由を考えて、動けない。

 那帆はピアノに全てをかけてきた人生に自分が疲れたようにも思った。けれどもその考えは那帆の心に当てはまらなかった。ピアノに依存して生きてきた人生だが、ピアノの楽しさを忘れた事などなかった。国際コンクールは那帆が恋焦がれた夢の舞台だった。

 国際ピアノコンクールは海外で十月に行われる、数年に一度のものだった。次も那帆が出られるとは限らない。長い予選があり、年齢制限があった。休みたければ、国際コンクールが終ってからでよかった。

 二〇一五年の国際コンクール、海外の会場に那帆の姿はなかった。海外まで行く気力も体力も那帆にはなかった。東京のマンションの自室のテーブルには梱包された薬が転がっていた。精神安定剤と睡眠薬だ。

 那帆は薬を飲む気にもなれず、自室で塞ぎ込んでいた。翌日には帯広から両親が揃って東京にやってくる。那帆を心配し、大学を休学させ、帯広に連れて帰るためだ。

 三カ月前から那帆の様子がおかしいとキャンパスで噂になった。しかし友人達は那帆のどこがおかしいのか、うまく説明ができない。講師も練習量がだんだんと減っていた那帆のおかしさはわかっていた。しかし顔を見ると何かが辛そうで、練習するように説得もできない。そもそもピアノや音楽に熱中できる学生ばかりで、やる気を出すように説得する経験をどの講師も持っていなかった。

 そこで出てきたのは大学のカウンセラーだった。カウンセリングをしてみると、那帆は人関係で悩んでいるわけでも、失恋をしたわけでも、家族に不幸があったわけでもなかった。むしろ那帆の周囲はしっかりと安定していた。

 ただはっきり説明できない具合の悪さが那帆にはあった。那帆には頭に不快感があった。

 カウンセリングの途中、那帆はなぜか笑った。おもしろい事があったわけでもない。那帆は自分の世界につい入ってしまい、何かに笑っていた。

 那帆に何が起きているのか、周囲はまるでわからない。心も思考も読み取れない。

 カウンセラーは那帆を東京の精神科のある病院に連れて行く。那帆は何度もかけて、慎重に診察を受ける。その間にも那帆は精神的な苦痛を訴える。それを和らげる薬が出される。もう大学にも通っていなかった。東京の医師はある病名を推測していたが、簡単には判断を下さなかった。カウンセラーは帯広の両親に連絡をする。

 帯広の両親が久しぶりに会った那帆は、変わり果てていた。ピアノに夢中で、音楽の話ばかりして、女友達と遊ぶ事にもそんなに興味を示さない、ピアノ熱中ガールはもういなかった。

 那帆の両親は那帆を、帯広に連れて帰った。わけがわからなくなった那帆は素直に従った。

 那帆はそれから、帯広アウローラ病院を受診していく。

 帯広アウローラ病院でいくつかの検査の後に下された病名は、統合失調症の初期症状だった。統合失調症というのは現実とそうでない部分の境目が曖昧になる病気だ。

 那帆はそれから入院し、退院後は家で療養して過ごす事になる。大学は結局、中退してしまう。国際コンクールは遥か遠くなり、消えていった。

 二〇一八年の九月だ。そして十月がもう近かった。春乃は遠くで、お祭りがやっている音を聞いた。秋分の日だ。これから北海道は長い冬にむかう。

 久しぶりの休みの日、石田とは予定が合わない。

「タイヤ交換、しておこうかな?」

 春乃はふとそんな事を思った。十勝で雪が降るのは十一月か、早くて十月の末だ。あまり早くタイヤを交換するのも良くはない。

 石田はタイヤ交換ぐらいなら、自分ができると話していた。けれども春乃は石田に大切な時間をそんな事に使ってほしくない。

 それでも春乃はディーラーに向かう。高級車の整備を春乃は全てディーラーに頼む。よく考えれば十月に時間があるとは限らない。石田とは夏から時間さえあればデートを楽しんでいる。でもどこに行くわけでもなく、春乃の家で過ごす事が多い。

 先週も春乃は石田と愛し合った。

 春乃と石田はもちろん大人の愛し合い方をする。口づけ合い、肌を重ねる。そうして春乃は心に空いた穴を埋め、石田はささくれ立つ心を鎮める。石田は営業の仕事を不器用にしかこなせない。営業成績は良くはなく、苛立ちを募らせている。

 ベッドの上で二人して横たわるのはごく自然な行為だ。お互いを癒し合う。春乃は石田に安らぎを得て、石田は春乃の温もりに温められる。

 二人は仕事で疲弊するお互いを、労わるためにも愛し合う。

 快楽の一瞬というのは何かが消える、何かが産まれる行為だ。例えば消えるものは闇だったり、産まれるものは命や希望だったりする。

 先週、自然な行為が終わり、ベッドに並んで横たわっていた時だった。

「子供、作ってもいい? 時間がないから」

「時間? なんの時間?」

 裸のままで寝ころびながら、そんな事を春乃は石田に言う。

「子供と一緒にいる時間だよ。人生を八十年として、三十一歳の私が今から妊娠したら、もう四十九年くらいしか子供を見守ってあげられない。できるだけ長く子供を見守ってあげたいのに、その時間は毎日どんどん減っているから」

 不思議な考えをするもんだと石田は思う。そんなに豊かでない春乃の胸だが、広くて色々な植物が生えているような胸だ。

「早いほうがいいし、妊娠が結婚より先になっても俺はいいけど、仕事は?」

「それなんだよね。いきなりの妊娠は職場の迷惑になるから」

 二人は愛の営みの中で確かな営みをしてきた。心を近づけ合い、心を慰め合っている。しっかりと呼吸をして、お互いの心を体内に入れていた。だから自然とそういう流れになる。運命の時間がやってきている。そのタイミングしかわからない事がある。

 九月の昼下がりだった。その事が気になった春乃は、裸のままベッドから起き上がる。避妊具を春乃は始末する。それがなんだか悲しい。いつまでも我が子に会う時間を削って生きているのが悲しい。

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