第36話 鎮魂の踊り

 十二月、札幌の空から落ちる雪の連続を小原は見つめていた。大雪の札幌だった。

 その日、小原は北帝大精神科医局の会合に集まっていた。北海道の各地に散らばった、医局の上のほうの医局員ばかりが集まった会合だった。会合の目的はただの懇談だが、人事異動の話し合いや各病院の頭痛の種など、話し合う事は多い。

 北帝大会議室での会合が終わり、これからすすきののクラブに移るところだった。小原は北帝大の廊下から雪を見上げていた。

 今の教授は豪傑な人物だ。精神科医というより、外科医に見える。たっぷりと口髭を生やして、山賊のように目がギラギラしている。全身からこの人物には敵わないという雰囲気を出している。そして何より女好きだった。

 小原は教授になろうと目論んでいる。臨床医という、主に患者の治療を大切にする医師である今の状態も好きだが、研究に情熱を燃やしたり、大学で講義もしたいと思っている。四十半ばを過ぎた今、オールマイティに仕事ができるのが小原だ。

 教授になれば若い世代に、これまで小原がやってきた事を全て伝えられる。だからどうしても小原は教授になりたかった。

 産休を二回したせいで出世は遅れたが、それでも小原は医局のかなり上のほうにいる。医局の女医の中ではトップだ。

 医局の付き合いの大切さを小原はわかっている。情報交換というのは仕事のうえでなによりも重要だと小原は考えているから、会合は苦にはならない。ただすすきののクラブは別だ。

 普段は真摯な眼差しで仕事をこなす医局員も、若くて綺麗な女性の前では人格が変わる。その人間のオスが出る。特に教授は女にだらしない。それを見るのが苦痛だった。

 しだいに雪を見上げていた小原が思う事が、夏目と春乃の事に変わる。夏目に今年の雪も見てほしかったとか、春乃は会津から帰ってきてからいい顔になったとかだ。

 その春乃は苫小牧に来て、もうすぐ二年になる。一時の別れの頃だ。まだ若い春乃は、北海道各地のどこかに異動になる。冬が終れば、それは来る。小原は春乃を臨床医として期待していた。

 小原は今の春乃にふさわしい異動先を考え、教授に推薦したかった。医局には信頼できる人物が何人もいる。どこが本当に春乃のためになるのかが悩ましいところだ。

 帯広から勝矢が会合に出席していた。いつも穏やかな勝矢は、その穏やかさが怖いぐらい冷静な人物に人からは見える時がある。勝矢は小原が信頼している医局員の一人だ。もう五十は過ぎていて、教授になる気もなく、帯広アウローラ病院の上のほうで生きる毎日を大切にしている。

 勝矢は小原を見つけ、その横に立っていく。

「今年は大雪ですね。帯広も今シーズンは雪が多そうです」

 窓の外の雪を見上げ、勝矢は言う。勝矢は誰にでも真摯で、後輩の医師だからという態度はしない。勝矢のそういう所を、小原はなにより尊敬していた。

「また冬ですね。そしてまた春。本当にあっという間です」

 教授から会津日新医科大学という聞きなれない大学を卒業した春乃を、小原が預かってほしいと言われたのも二年前のこの時期だった。小原は会津という場所をよく知らなかった。だからネットで調べ、会ってみたいと思った。

「今日もクラブは長いのかな? 教授は好きだなぁ」

 そう言って勝矢はぼやいた。勝矢はクラブで接待されるより、居酒屋で会話をしながらちびちび飲むのが好きなタイプだ。女性の誘惑にも比較的冷静だった。

「ここ数年で一気に飲めなくなったんですよ」

 勝矢が小原の隣でぼやいた。

「あら、そうなんですか? 健康にはいいですか、少し寂しいですね」

 小原の知る勝矢はそれなりに飲めたはずだった。

「星先生はどういう方ですか?」

 いきなり勝矢はその話題を持ち出した。

 小原は悩む。一言で言いにくい。小原は少し悩んでから言った。

「札幌出身ですが、あれは会津の女ですね。戦争と震災を味わった会津の女です」

 小原はそれだけ言った。春乃が会津戦争があった場所で勉強した事も、震災を研修医として戦った事も、勝矢にはそれだけで伝わった。

「しばらく帯広には女性がいないので、女性に来て頂けると助かるんですよね」

 信頼している勝矢から思わぬ話になった。女医にしかできない仕事というのがある。

「もしそうなったら、厳しくしてやってください。伸びしろは大きいはずです」

 それで話は決まったようなものだった。後は教授の気分だった。

 その日も教授はクラブで上機嫌だった。小原の横には二十歳の新人がついた。入ったばかりで酒の作り方が危なく、会話も自分からはできなかった。いくつも修羅場を経験してきた小原を楽しませる話などできるはずがなかった。だから小原はフランクに恋バナを話させた。そうすると若いホステスは、いくらかは話せるようになる。

 小原は恋に悩む若者のいい相談相手になっていく。

 ただ小原は知っている。人間関係の本質は、選ぶことなどできないと。運命という流れに支配されている。どんな親のところに生まれ、誰と一緒に学び、何を感じて生きてきた人間か、わかったうえで仕事をするかどうかなど選べないように、恋もそうだと。

 それでも一緒に生きたくなる人と、小原は何人も出会ってきた。

 嫌でしょうがなかったクラブだが、これからの若者の悩みを聞くのは楽しかった。

 小原がクラブからやっと解放される時、教授は小原に声をかけた。

「帯広は冬がなにより寒いけど、夏もけっこう暑くなる。皮膚病が再発しないといいな」

 春乃の事だった。教授はそこまで把握していた。

 冬の札幌、北海道は雪に包まれた静かな世界で、遠い春を待つ。

 会津から帰ってきた春乃はある仕事を、苫小牧の病院の、デイケアスタッフから頼まれていた。クリスマス前、デイケアの忘年会でその仕事を春乃は完璧にこなした。一つの間違いもなかった。

 春乃は踊っていた。しかもデイケアの患者の前でだ。

 忘年会ではデイケアスタッフや医師が出し物をするのが恒例になっていた。去年も今年も医師からの代表は若い春乃の役目になる。去年はカラオケを歌った春乃は今年のネタに困った。いいアイディアがなかなかでない時に、息抜きの途中であるアイドルグループの新曲を春乃は知った。その新曲のダンスはその年の年末になって大流行していた。

 忘年会の会場にデイケアスタッフがそのアイドルグループの新曲を流すと、忘年会のボルテージは一気に上がる。音楽とともに春乃が会場に入る。デイケアスタッフが作った、女子高生の制服のような衣装を春乃は着ていた。

 患者たちは皆、ゲラゲラ笑う。爆笑と歓喜で、忘年会は大盛り上がりになる。特別な衣装で完全コピーのダンスを春乃は披露していた。もっと笑ってほしい、もっと笑ってほしいと春乃は踊っていく。

 それは夏目への鎮魂の踊りでもあった。

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