第35話 春乃が忘れてしまった事

 礼香は二人のために夕飯を作っていた。味付けが抜群の料理で、それを三人は味わって食べていく。台所には包丁を使わずに調理をする器具を完備してあった。

「こんなにおいしい料理もできるなら、礼香さんは絶対に結婚できるよ」

「そう? でも男運は悪いのよ」

「そうなの? どんなふうに?」

「仕事に疲れてニートになった奴とか、いきなり絵が描きたいとかで、大学を入り直すとか言い出す奴とか。初めは我慢したけど、ついていけなくなった」

 さすがにそれは男運が悪いと二人とも思った。

「さてと。行こうよ」

 食事後の食器洗いを済ますと、礼香はより元気になる。

 初日に行ったスナックに、その日は三人で向かう。

 その日は貸切ではなかったが、開店と同時に三人が入っても、まだ客はいなかった。十一月の平日で、常連より紅葉目当ての観光客に期待したいような日だった。

 また女子会になり、一気に話が盛り上がる。

「まじで? まじではるはアイドルを目指してたの?」

 その話題を春乃は初めて礼香にした。今まではちょっとそういう雰囲気にならなかった。

「じゃあ、なんで医者になったのよ」

「んー。アイドルに挫折したというか、風菜にたきつけられた」

「煽った、煽った。やれば勉強できるのに、アイドルにはまっていたから」

 懐かしい青春の話だ。でもその時でもアイドル志望だった事は春乃の誇りだ。

「私も札幌に住んでみたいな。でも雪かきがやばそう」

 北海道の話題になり、礼香はかなり本気になった。

「マンションなら雪かきなんかしないよ」

 風菜は最近、ようやく一人暮らしを始めた。実家暮らししか知らずに、結婚はしたくなかった。

「来ちゃいなよ。札幌なら地下鉄でどこでも行けるから」

 礼香は福島から離れたいわけではなく、刺激がほしいだけだ。

「ところで礼香さん、いつうちの店で働いてくれるの?」

 ママが切り出してくる。ママのその話は本当に本気だ。礼香は春乃に教えられたこの店の常連になっていた。

「会津でも結構お客さんをつかんだんでしょ? まさかもう札幌行くのを決めたの?」

 片腕のない礼香は、その障害を武器にしたトークがうまかった。浜通りにいた頃から水商売で稼ぎ、会津でも礼香目当ての客がけっこう増えていた。

「あー、それ無理です」

「どうして? 私が嫌なの?」

「逆です、逆。超好きだから、ママを嫌いになりたくないんです。私、職場の人間関係はいつも最悪にするから。殺したくなるほど憎いと思っちゃうんです」

 仕事にストイックな礼香は、中途半端な気持ちで働く人間がなにより嫌いだ。そして仕事にきちんとした自分の考えと思いを持っている。その思いが強ければ強いほど、どうしても人とぶつかってしまう。

「障がい者が殺すとか言うと、まじで誰かに殺されちゃうけど」

 礼香はそう言って笑い飛ばす。春乃はその気持ちの大きさが好きだ。そこまで仕事にストイックな礼香だが、春乃は怖くはなかった。むしろ春乃は自分もそれぐらいストイックに臨床医を追求したかった。

 女子会は深夜まで続いていく。

 三人がもう帰る頃だった。スナックはもう少し営業していたが、春乃と風菜は夜が明ければまたボランティアだ。

 タクシーを待つ間、風菜がトイレに行き、春乃は礼香と二人になった。スナックは暑いぐらいで、タクシーが来ていないか見ると春乃は外に出た。

 会津の静寂があった。

 風のない夜だった。空気はその日も冷えていたが、北海道の夜に比べれば、会津の晩秋はまだ暖かい。会津若松市の中心の繁華街でも、もう車の往来が僅かばかりの時間だった。

 会津は星空の下、静寂に近い世界になっていた。

 礼香も外に出てくる。

「はる、一つ忘れちゃった事があったね。はるは今、大事な事を忘れているよ」

 微笑みながら礼香が言い、春乃の横に並び、星空を見上げる。

「なんかあったっけ?」

 春乃に心あたりは全くない。

「春乃も会津の女性で、福島の人だって事」

 春乃が福島から出発したのは三年半前だ。会津で六年間、医大生として過ごし、研修医として二年間、被災した福島で働いた。人生の四分の一は福島で過ごしていた。

「忘れないで。春乃は八年も会津で生きて、福島のために戦ったんだから」

 礼香は風菜から、春乃が研修医として福島で戦った日々を聞いていた。春乃は北海道に帰ってから二年後の春に、やっと戦いの日々を風菜に話せた。ちょうど研修医から専門医になる頃だった。だがそれから夏目の事があった。あの震災後の日々と夏目の死に、気持ちだけは強かった春乃が負けそうになっていた。風菜は今回の旅の前に、電話で礼香にそんな春乃の状況を話していた。普段、前向きな考えができる礼香でも春乃が心配になった。

 だから礼香は一つだけ重要な事を春乃に教えたいとあれこれ考えていた。何か一つ、とても大切な事さえわかれば、春乃なら立ち直ると思ったからだ。

 春乃はすとんと、心で何かを納得できた。自分も会津の人間なのだと。

 北海道に帰る前の日、まだ夕暮れの頃だった。

 春乃と風菜、それに礼香が飯盛山にいた。会津戦争の悲劇がそこには象徴されていて、記念碑や白虎隊十九士の墓がある。白虎隊は飯盛山で自刃をしていた。春乃達は会津の花屋で準備をしてから、飯盛山を訪れていた。

 飯盛山で三人はそっと手を合わせていく。春乃は白虎隊の志士にも、星に帰った夏目の行く末を託す。

 翌日、会津の女を取り戻して、春乃は北海道に帰った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る