第32話 彼は馬鹿だ

 春乃がこの店を知ったのは二十一歳ぐらいだった。大学三年の頃に田安に教わり、飲むようになっていた。アイドル以外の趣味がほしくなっていた頃だった。でも春乃はあまり飲めなかった。それでも春乃は学業の悩みをママに相談したくて、この店に頻繁に通った。

「田安先生も来れば良かったのに。一昨日もお見えになったけど」

 そう言ったのはすみれだった。田安は女二人のほうがいいだろうと判断した。

 春乃はウイスキーが好きだが、基本的になんでも飲むほうだ。ただやはりあまり飲めない。その日はまず焼酎を春乃は頼む。会津で作られた焼酎だ。酒がつよくない春乃は、水で割ったものしか飲めない。風菜はそれなりにどんなお酒もたしなめた。

 あまり春乃は飲めないのだが、そんな事をママは気にしない。

 ママはまだ春乃がおかしいのに気づく。春乃の目の力が弱くなっているように、ママには見えていた。

「春乃さんが会津に来たの、いつ以来?」

「去年の夏休みだから、九月ぐらいでしたね。運良く、暑くなかったです」

「治ったの? 皮膚病」

「それが北海道に帰ったら、ころっと良くなったんですよね」

 少し外出すれば汗だくになる会津の夏に負けて、春乃は会津で生きるのを諦めた。それがなければ福島に残っていた。

「やっぱり北海道から福島は遠いです。暇があれば来たいのに」

「そうね。でもいいじゃない。若い医者が忙しいなんて。頑張っている証拠よ」

 大学五年までは春乃とママは頻繁に会えた。それが国家試験の勉強時間のために減っていった。国家試験直後にあの震災が起き、福島で春乃が研修医になると、会う時間はしばらく全くなくなった。

 福島での研修医時代、春乃のプライベートは寝る事しか許されなかった。

「子供時代は毎日が何も変わらなくて退屈だったのに、今は自分も世の中も毎朝変わっているんですよね。それについていくのが精一杯なんです」

 春乃は酔ってしまい、そんな愚痴を漏らした。

「あっという間におばあちゃんよ。二人はどんなおばあちゃんになりたい?」

 ママはさらりと二人にそんな質問をする。ママは目標なんかを持ってほしいわけではない。忙しさに負けて、なんとなく生きてほしくないだけだ。

「できるだけ一緒に遊んでもらえるおばあちゃんかなぁ」

 春乃は自分の祖母を思いながら言う。

「子供の質問になんでも答えられるおばあちゃん。教育おばあちゃん」

 風菜が言う。風菜らしい答えだった。

「二人ともいいわね。でもお年玉はあげすぎちゃ駄目よ」

 そんな忠告をしたママに、店中に笑い声が響いた。

 ママがもっと言いたかったのは、これからは春乃達の世代が世界を担うという事だ。

 ママはもう精神科の専門医になった二人から、しっかりと料金を頂く。けれども二人が思っていたより安かった。春乃の久しぶりの楽しい一時だった。

 最後にママは二人に手袋をプレゼントしてくる。

「医者なら、ちゃんと暖かくしなさいとダメよ」

 そんな声をかけて、ママとすみれは二人を見送った。秋の深夜の会津は冷えきっていた。

 翌日、二人は鶴ヶ城の天守閣に登っていた。

 松平容保公の肖像の前で、春乃は姿勢を正して祈っていた。

「夏目さんがそちらに行きました。どうかよろしくお願いいたします。彼は誰よりも人に誠実で、本当はたくましかった人です」

 春乃は少し長く、そう祈り続けた。

 松平容保公は戊辰戦争の会津戦争で、新政府軍と戦った会津藩の藩主だ。春乃は思う、夏目が星に帰った事を他人は色々言えたとしても、一人の男が悩んだ末に決めた事に口を挟むほうがどうかしていると。

 天守閣の中は、今は会津藩の資料が置かれている。それを二人は丹念に見たり、読んだりする。何度も目を通しても、忘れていた事がある。

 天守閣の一番上まで二人は登る。そこから会津の街を一望できる。

 春乃はしばらく会津の街を眺めた。

「彼は本当に馬鹿だ」

 ぽつりと春乃は声を出した。

「私なんか全然格好よくないのに。ただ無我夢中で生きているだけなのに。小原先生に言わせれば、無責任な半人前が薬を調節しているのに。患者の前じゃ、馬鹿な自分なんか出せないから、そうしているだけなのに。日曜はいつまでも着替えをしないし、ゴミを出す日をよく間違えるし、いつも料理をするかどうか面倒くさいと思って悩むし」

 それからも春乃は自分の欠点をいくつもあげた。

「私の欠点なんか、無限にあるのに」

 溜息と共に春乃は言い終えた。

「今でもドルオタなのは?」

「それはない。アイドルは人生の全てだから。なんかこの歳になったら、もっと好きになったんだよね」

「さすがね」

 春乃は、そこは平然と言ってのけた。

「人を見て、自分を惨めになんかに思っちゃいけないのに。何もわからないから。自分が不幸かどうか、他人が幸せかどうか、誰もわからないし、誰も決められないのに」

 秋の会津の風は、北海道から来た二人でも寒く感じる。

「私だって、結果はよかったけど、プロセスは最悪だった。大学一年から国家試験には落ちるから気をぬくなと言われ続けたし、風菜がいなかったら医大を受験すらしなかったと思う。医師になっても失敗は多いし、先輩の先生に怒られてばっかり。小原先生には、わかっていないっていつも言われる」

「あの先生は怖いね。どこまでも医療を追及している人だから」

 医局の交流で風菜は小原と会っていた。

「でも私はこれがいいの。別に偉くなりたかったわけじゃないから。精神科医療の世界をできるだけわかりたくて、医師になったから」

 曇りの、秋の会津の空だった。雨が降ってきそうで、降ってこなかった。

「彼は馬鹿だ。私はもっと馬鹿だけど」

 春乃はそう言い、風菜がただそれを聞くと、二人は天守閣の頂上を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る