第30話 ラブレター

 長時間の会議が終った。小原はぐったりと疲れていた。夏目が星に帰って以来、小原は心の火が消えそうな自分を知っている。それまでは春乃やスタッフに、猛烈な勢いで患者に関する事を問い質すのが小原だった。

「春乃、まだわかってない!」

 そんな台詞でいつも医局に飛び込んできていたのが小原だった。

 火炎のように生きていた小原が、すっかり消沈していた。平然なふりをして、何もなかったように振る舞っていたが、患者のために何でも春乃に迫る恐怖の小原はいなくなっていた。同じ女だからと小原は春乃を容赦しなかったが、それがいつの間にか母性で春乃を見ていた。

 小原は五年も前から夏目が星に帰りたいと願うようになったのを知っていた。

「なんかもう消えたいな」

 何度目かの入院の際、一度だけ看護師にそう漏らしたと伝えられていた。

 小原はそれまでよりも慎重に、夏目をカウンセリングしていた。しかし死を願っている事を夏目は素直に認めなかった。隠そうとして、隠すのもうまかった。

 本気だったこそ、夏目はその気持ちを小原にも触れさせようとすらしなかった。

 小原は内心で苛立ちながらも夏目に挑んだ。何年もその攻防は続いた。小原は優しく、柔らかく、夏目が聞いてくれる声の大きさで、決して夏目を責めないように夏目の心に近づこうとした。星に帰ろうとする夏目に、あらゆる神経を使った。

 結果は小原の惨敗だった。

 夏目は最後まで星に帰る意志を、小原にすら触れさせなかった。

 会議の後、小原は夏目の母から渡された二通の手紙を読んでいた。両方とも夏目の遺書だった。一通は小原への遺書で、感謝ばかりが書かれていた。

 もう一通は春乃への遺書で、ほぼ恋文だった。小原はその内容を把握していた。もう何度も読んだ遺書だった。小原はそれを読む度、ひどい疲れに襲われる。

 私服の春乃が医局に戻ってきた。一息つけようとお茶で喉を潤すが、そこから医局でどう動いたらいいかがわからない。素直に帰宅しても良かった。

 小原は迷っていた。この恋文は医師としての春乃を潰すかもしれないと。

 だが小原は春乃に夏目からの遺書を渡した。これで潰れるなら、精神科医は無理だと小原は判断した。

「夏目さんからだ。ラブレターだよ。春乃には悪いが、私が先に読んだ」

 突然、ラブレターなどと言われて、春乃は心臓が止まるかと思った。

「どうする? 読んでみるか?」

 春乃に手紙が渡されていく。春乃はどう受け取っていいのかわからない。

 でもそれが夏目の伝えたかった事なら、読まないわけにいかない。恐る恐る小原から封の開けられた恋文を受け取る。春乃は封が開いてあった手紙を、夏目の遺書というラブレターを読んでいく。

「星先生、春乃さん。春乃さん、本当にごめんなさい。

 春乃さんを名前で呼ぶなんて、初めてですね。できれば声に出して呼んでみたかったです。病院ではなく、どこか公園なんかで、呼んでみたいと思っていました。

 ごめんなさい、本当に疲れてしまったんです。心が限界を超えてしまい、朝起きても生きている事そのものが辛いんです。生きている事がなにより辛いんです。

 自分ではこの病気に勝てません。もう心に何の力がないんです。

 ずっと惨めでした。いつからなのかはよく覚えていません。高校時代の彼女が遠くで人生を歩んでいるのを思ったり、野球の仲間が仕事で活躍したり、結婚を決めて成長しているのを見たり聞いたりすると何よりも惨めでした。

 病院の玄関を初めて通った惨めさを今でも覚えています。

 自分に夜明けはこないです。地球が止まったのかもしれません。

 好きでした。春乃さんが好きでした。初めて会った時から、つい目が動きました。

 先生は格好良かったです。野球で知り合った人間より、小原先生より、誰よりも格好いい女性でした。颯爽としていて、いつも全力で。

 俺も春乃さんのように生きたかったです。毎日俺と同じ苦しみを持つ人たちに、真剣に向き合う春乃さんの姿をいつも見つめてしまいました。春乃さんのようなキャリアウーマンにふさわしい社会人になってみたかったんです。

 こんな事をした俺みたいな馬鹿は早く忘れてください。

 最近、年下の患者が多くなってきたから、試合会場から逃げ出した人間なんかより、今戦っている人達を助けてあげてください。春乃さんなら、きっとできます。

 小原先生がエースで四番なら、春乃さんはセンターで三番かもしれません。小原先生が投げる後ろ姿をいつもじっと見て、小原先生まで打順を回そうと必死になる。そんな感じでした。伝わりますか?

 でもいつか春乃さんがエースで四番ですよ。頑張ってください」

 遺書を読み終えて、春乃は放心した。声も涙も出なかった。ただ悔しさがだんだんと心の奥底から滲みだした。

 春乃は小原に何も言わない。しばらく放心して、時間が経つと机の上を片付け、鞄を持ち、帰る準備を済ませた。

「帰ります。おつかれさまです」

 小原に目も合わせず、春乃は医局から出た。魂が壊された弱弱しい声なのに、小原には激怒した声に聞こえた。

 小原は春乃から南の愚鈍という言葉を、ずいぶん前に教えてもらっていた。いいネームだなと小原は思った。愚鈍と思う事で自らに試練を課せるからだ。

 ただこの時ばかりは、小原は春乃に自分を責めてほしくなかった。

 春乃が何に激怒したのかは誰にもわからない。夏目なのか、南の愚鈍の自分なのか、病気という悪魔なのか。それとも運命そのものなのか。とにかく無力で何もできないという絶望に春乃は飲み込まれそうになっていく。

 自分に何も伝えずに帰った春乃を、小原はその日だけは心配し続けた。

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