第29話 無力感の渦
その日は土曜日で、春乃は久しぶりの休日に安心して、ぐっすりと眠っていた。ようやく起きた朝、玄関のチャイムが鳴った。朝から誰だろうと、不審に思いながらインターホンのモニターを見ると、小原がいた。
小原は魂が消えそうな顔で立っていた。
「夏目さん、亡くなったよ。一応、病院には運ばれてきたけどね。もう何もできない」
うつと躁以外には持病がなかったはずの夏目の死因を、すぐに春乃は察知した。
苫小牧の人気のない場所で、夏目はロープで死を選び、星に帰っていた。魂が抜けた肉体だけが病院に運ばれた。
とにかく春乃は小原と病院に向かった。
小原は遺体をきれいにする処置をしただけだった。遺体は看護婦達がゆかんという、きれいに遺体を洗う行為を行った後になっていた。
霊安室で泣き崩れた夏目の妹がいた。気丈にしていたのか夏目の母は、息子の顔を何度もさすっていた。
「ごめんね。何もできなかった母親で。本当にこんな親でごめんなさい」
夏目の母は、泣きじゃくる娘にはわからないように小声で呟いていた。
二日後、夏目の通夜だった。
月曜日の診察を自分がどう切り抜けたのか、春乃は全く覚えていなかった。
小原に言われるがままに、春乃は自宅で喪服に着替えていた。洋服店で一番高い喪服を、祖母が春乃のために大学生の時に揃えた。喪服だけでなく、高いバックなど、葬式に必要なものを祖母は全て揃えた。
「人を見送る時は、できる限り、ちゃんとせんといかん」
祖母は春乃にそう諭した。
「春乃はこれからこれに何度も袖を通すんだよ。本当にできるのかい?」
祖母は何気なく言っていた。春乃はその祖母の台詞を何度も噛みしめる事になる。
「私、もう医学生だよ。おばあちゃん。もうやらないといけないの」
「そうだった。そうだった」
祖母はにっこりと微笑みながら、喪服の代金を支払っていた。
本当にできるのかと祖母が指摘した意味を、春乃は通夜の席で噛みしめていた。
通夜が始まる前に春乃は小原と夏目の遺族に挨拶をする。
「最後に幸晴の顔、見てやっていただけませんか?」
夏目の母に頼まれ、春乃と小原は夏目の顔をしっかりと目に焼き付けた。
自分が助けられなかった患者を覚えるのも、医師の仕事なのかもしれない。
夏目の四十九日の前日だった。土曜日だったが、勤務のない病院スタッフがずいぶんと私服で会議室に集まっていた。会議の目的は夏目に関する事だけだった。これで三回目の会議だった。一回目は夏目が戦った十年を振り返り、二回目は夏目が旅立ってからの変化を、スタッフがそれぞれ思い思いに話していた。誰かが話す時、口を挟むのは許されなかった。
三回目のその日が最後の会議だった。議長を務めていた小原は、とにかく夏目に関する事を話すようにスタッフに促した。
悔いばかりの者や、夏目との思い出を話す者、残された夏目の家族を心配する者、話は様々だったが、誰もがじっと耳をすました。
春乃はその日まで、時間があり、心に少しは余裕があると夏目を思う時間を作った。いや春乃は初めて患者が自ら星に帰ったのに感傷的になっていた。
春乃と夏目の出会ってからの時間は一年と五カ月だ。
「思っても考えてもいいが、自分をわきまえなさい。春乃にはまず生きている患者がいる事を忘れたらいけない。それに担当医は私だっただろ」
小原はそう何度も春乃に忠告した。かなりきつく言い渡していた。
春乃はあの時にこういう話をすればと何回かは思った。でも春乃はその思いをすぐに否定した。南の愚鈍である自分が、無能で無力なのを春乃はもうわかっていた。
夏目が入院していた時、春乃は夏目を診察した。話の中で夏目は妹が大学進学を諦めた事、更年期障害の母が働いているのに自分は寝てばかりの事、無職で社会に復帰できるかなどをひどく気にしていた。
春乃は丁寧に診察し、まだ下手なカウンセリングにも時間をかけた。
自分の未熟さを知っているから、春乃は必死に神経を高ぶらせてカウンセリングをした。それがなぜか会議の時には、思い出に変わっていた。全て終ったと春乃は認識していた。
何気ない時間が思い出になる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます