第28話 意志
夏目が就職して二年目の夏だった。ちょうどボーナスが出た後で、職場の雰囲気は明るかった。しかし夏目だけは苦渋の顔をしていた。その頃には食欲も落ちていた。
就業時間後、ある女性社員がうまいジョークを言った。職場は笑い声で沸いた。ただ夏目だけが笑わなかった。
それを夏目の上司は見逃さなかった。すぐに夏目は個人面談になる。
「いつか思い出せないんですが、体のあちこちが痛くなってきたんです。それも毎日、昨日とは違う箇所が痛いんです。試しに病院に行っても、過労と言われるだけなんです」
上司は一年前より元気のない夏目をわかっていた。
「今辛い事を、ここに全部書いてみろよ。仕事の事でも、なんでもいいから」
上司はうつ病の経験者だった。上司は白紙になんでもいいから書かせた。
夏目は体の不調をずいぶんと書いた。仕事に関しては去年はできたのに、今年は何かきついという曖昧なものだった。
その面談から一週間後には、夏目は苫小牧の、精神科のある病院に入院していた。
夏目を担当したのは小原という四十を過ぎた医師だった。子供を二人産んでいた小原は、セミロングの髪がゆったりとしていて、柔らかくも硬くも感じる顔をしていた。菩薩というか、しっかりとした母性のある顔をしていた。子育てもしながら精神科医の仕事を全うしたいという情熱が小原にはあった。
夏目はやや重いうつ病だが、きちんと休養すれば、しっかり治ると小原は最初に思った。他の病気が絡んでいるとも思わなかった。その証拠に一度目の入院治療で夏目は順調に回復した。性格的にうつになりやすいわけでもなさそうだった。ただ責任感がやけに強く、弱音を吐かないのを小原は気がかりに思った。
そして小原は最初から、何かを自分が怖がっているのも気づいていた。
いくら順調に回復しても、相手はうつ病だ。夏目の回復には二年は必要だと小原は診断し、気長に待つように夏目を諭した。
夏目は元気になれるのか不安だったが、小原の心理指導でそんなに焦りもしなかった。高校の同級生達が順調に人生を歩んでいるように見えるのに、少し苛つくだけだった。
本当は少しではなく、夏目は病状にかなり苛立っていた。
状況が全く変わってきたのは、治療から一年半を過ぎた頃だった。その頃に夏目は一時期、躁状態になってしまう。在宅治療に変わっていて、再度の入院ではなかったが、小原は夏目の薬の調整に手こずるようになった。夏目は薬が効きすぎたり、合わないと夏目が訴える事が徐々に多くなっていく。
夏目はうつと躁を繰り返す、ラピットサイクラーだった。治療は長くなっていく。
その年、夏目はもう二十九歳になっていた。一度は障がい者の事業所で働いた時期もあったが、うまくいかなかった。もう数えられないほど入院生活を小原に提案された。夏目は自分がどうしたいとか、どうすればいいかなど考えられず、ただ小原に従った。
とっくに高校を卒業した妹は、大学は選ばず、苫小牧で働いていた。
夏目はもう疲れ果てていた。病気の苦しみに疲れ果てていた。
そして未来への苛立ちが現実になった事にぼんやりとした絶望感を抱えていた。
そんな時に現れたのが、春乃だった。四年間の研修医を終え、精神科の専門医として苫小牧の病院に赴任した。
他の患者が春乃の年齢を聞き出して、それが夏目にも伝えられた。春乃が二十九歳になる年だった。夏目と春乃は同じ齢だった。
春乃はほぼ一人前の医師と同じ仕事と責任を与えられ、本格的に精神科医としての人生を歩もうとしていた。とにかく仕事に邁進しようと、意気込んでいた。
仕事に忙殺される毎日を春乃は生きていた。担当している、していないに関わらず、入院患者から色々な話を傾聴していく。そんな中に夏目もいた。具合が悪く、小原がいない時、夏目は春乃に長く診療された事もあった。
夏目はしっかりと春乃を意識した。羨望と恋心だった。自分と同じ年齢で、精神科医として戦っている姿に「すごい」と脱帽した。感銘はそのまま恋心につながる。
遠くから夏目は春乃を目で追った。けれども医師と患者だ。叶うわけがないと、さとられてはいけないと夏目は心がける。
その恋が夏目の人生、最後の恋になる。
満身創痍で、心がすっかり病気に圧し潰されて、夏目は翌年に自分の星に帰った。
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