第2章 会津・苫小牧編

第27話 星へ還った人々

 振り返れば、人は人生で何度絶望をするのだろうか。

 夏目が死を選んだのは、夏の甲子園が終り、北海道の秋が始まった頃だ。

 夏目幸晴。齢は春乃と同じだった。苫小牧生まれの夏目はどこにでもいそうでいない野球少年だった。中学まではもちろんエースで四番だった。

 高校をどこにするか、夏目はずいぶん悩んだ。地元にある強豪校に入れば甲子園は夢ではなかったが、自分がレギュラーになれる保証はなかった。それよりも問題だったのは夏目が母子家庭で、小さい妹がいたという事だった。その強豪校に入るには学費がかかり、当時はまだ授業料をそれなり払う必要があった。

 中学生の夏目は悩んだ挙句、地元の公立高校に進学した。そこは苫小牧の高校の中では就職に強いほうだった。きっと自分は高卒プロにはなれないだろうから、野球は高校までにして、自分が早く働いたほうがいいと考えた結果が一番大きかった。

 夏目は妹には大学に進学してほしかった。

「社会人野球なんかはどうなの?」

 とにかく野球が好きな息子に母はそんな質問もした。

「母さんを見ていると、仕事をやりながら野球なんてできそうもないよ」

 夏目は自分が不器用なのをよく知っていた。

 夏目は高校でもピッチャーを続けてみたが、球速はそこそこで、中学時代からの課題だった制球があまりよくならなかった。

 高校生の夏目は打つほうがよく成長した。飛ばす能力もあったが、それよりも確実にヒットを打つほうがうまかった。選球眼も良かった。

 高校三年、最後の甲子園を目指す夏だった。夏目はキャプテンとして抽選会のくじを引いた後、自分の運の悪さに悶絶した。くじの結果、三回戦に夏目が行くかどうか迷ったあの強豪校と当たる可能性が出てきた。

 強豪校は前の年に甲子園に出場していた。

 夏目の高校はなんとか三回戦まで進み、その強豪校と当たった。結果は完封負けで、大差での敗北という結果だった。

 強豪校の二年生ピッチャーはスケールがまるで違っていた。夏目が高校三年間で対戦したピッチャーの誰よりも全てが上回っていた。夏目は一打席目を変化球でかわされ、二打席目は球威に負けてフライだった。三打席目は緩急を使われて駄目だった。

 試合後、夏目は夏の青空が爽快だったのを記憶する。

 その年の甲子園が終った後、その強豪校の二年生ピッチャーと夏目は偶然、苫小牧のあるコンビニで出くわした。

「最後くらい、ストレート勝負できてほしかったな」

「真剣勝負だから、ああなったんですよ。それにあのチームで一番怖かったし」

 相手は夏目を覚えていた。二人はがっちりと握手をした。

 就職活動が解禁されると、夏目はすぐに大手物流会社に内定が決まった。恐ろしくあっさり決まってしまった。仕事はかなりハードだが、ボーナスや社会保障などは完備されていて、母は泣いて感謝をした。母は心底安堵した。

 その頃の夏目の悩みは、高校一年から付き合っていた彼女と別れる事だった。別れたい理由など何もなかった。ただ彼女は東京の私立大学への進学が希望で、夏目は苫小牧に残るのが決まった。秋ぐらいから、いつ別れるかを二人で話し合うようになった。

 しかしそんな理由で簡単に別れられるほど恋は甘くなく、二人は春まで一緒だった。

「時間、止めたいね」

 苫小牧の駅で彼女はそんな事を言ってから、列車に乗り込んだ。車窓からじっと夏目の顔を見続けていた。夏目の彼女はくしゃくしゃの泣き顔だった。夏目は怖い顔だった。二人は別れの言葉をとうとううまく交わせなかった。

 恋人を見送った夏目は、駅のトイレでしばらく涙した。

 夏目の調子が悪くなった時期は、はっきりとしなかった。就職が決まった後の秋から、なんだか体の痛みが多かった。肩がなぜか痛かったり、足や腰も時々なぜか痛かった。たまに理由がないのに下痢が続いた。

 夏目はいきなり野球をやめたせいだと軽く考えていた。

 春になって無事に就職した夏目は、ハードな仕事にとにかく食らいついた。新人らしいミスもあったが、職場の人間の叱責はうまかった。まだトラックは運転できなかったが、できる業務は必死にこなし、冬にはきちんとボーナスをもらえた。

 クリスマスにほしかった物を買ってもらえて喜ぶ妹に、夏目も母と同じようにひどく安心した。

「もっと頑張らないとね、母さん」

 夏目は母にそう言ったが、母は胸騒ぎを覚えていた。

「あっ、うん。そうだね」

 夏目がもっと仕事で頑張らないといけないのは母もわかっていた。

 それより母は夏目の顔から生気が減ってきているのを見逃していなかった。でも夏目は体の痛みぐらいしか訴えず、ハードな肉体労働だからと、母は何かの病気とは全く思わなかった。

 それがうつ病の兆候だった。そしてまもなく夏目はうまく眠れなくなっていく。

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