第22話 鬼気と休息
季節は北海道でようやく桜が見られる頃だ。五月の初旬になっている。
気温はまだ肌寒い日もあれば、夏が近いのを感じられるほど暑い日もある。それが五月の北海道だ。木々に新緑が見えてきて、花々がやっと咲き誇り始めてくる。
その日は暑い日になっていこうとしている。
ついこの間の四月まで雪が降っていた帯広が、夏日になっていく。
春乃は暑い中を自宅でひたすら眠っていた。朝までは当直で仕事をしていた。死を選んだがうまくいかなかった患者が救急車で運ばれてきた、忙しい夜だった。春乃は汗だくになりながら、薬を大量に飲んだ患者にとにかく処置をした。
この世を去るのがうまくいかなかった患者は、入院施設のないクリニックに通っている患者だった。患者が回復し、目覚めると、春乃はできるだけ話を聞こうとした。しかし患者は口を割らない。ただ、もう生きていたくないのにと、涙を零す一方だった。
生きていたくない。それは本音でしかない。簡単に変わらない本音で、心に重く沈殿する心だ。
そうした患者は珍しくない。精神科の治療は時間がかかる。長い長い時間、病気と向かい合っていくうちに心が悲鳴を上げる。
春乃はそういった時の適切な言葉が、未だによくわからない。どうしても取り繕ったような言葉になってしまう。どんな言葉を使っても、しっくりこない。
患者が隠している声や、隠れてしまった言葉がまるでわからない。
けれども春乃は処置の時はまさに鬼になる。他のスタッフに強い言葉を使ったりして、まるで人が変わってしまう。豹変した春乃を他のスタッフは恐れおののく。処置室での春乃は帯広アウローラ病院の精神科医師で最も怖くなる。
帯広に赴任する前の苫小牧での出来事が春乃をそうさせていた。
春乃は午前十一時に自宅に帰れた。シャワーを軽く浴びて、それから春乃は眠った。考えたい事は山ほどあったが、肉体がもうそれを許さなかった。
寝床で春乃は暑さを感じながら、働かなくなった脳を感じながら眠る。
もう夕方になる頃だ。春乃の臭覚が刺激された。ご飯が炊けた匂い、味噌汁が温められる匂い、何かが炒められている匂いがする。料理を作る音が春乃の耳に届く。春乃の家に誰かいて、勝手に料理をしているようだった。
春乃は飛び起きる。だがそんな事をする人間が誰なのかすぐわかった。
キッチンに行く。やはり立っていたのは春乃の母だった。春乃の母は札幌から帯広までわざわざ出向いてきたのだった。
キッチンの隣の浴室から、洗濯機が動く音もしていた。
「おはよう。もう夕方だけどね」
母は快活な笑顔を春乃に見せる。
「おはよう…」
春乃はまだ疲れていた。まだ脳は睡眠を欲しがる。
「いつ来たの?」
「三時くらいよ。春乃、洗車をしなさいよ。あんな高い車が汚れているわよ」
春乃はそうだったと思う。春は毎日洗車をしてもいいくらい車が汚れる。
「それと冷蔵庫に色々入れておいたから」
母はてきぱきと動き、鋭く生活に何が足りないかを春乃に指摘する。春乃はベテランの母親に、自分もこんなふうになれるのかと思う。
月に一度の頻度で、母は春乃の自宅を訪れ、甲斐甲斐しく世話をしていた。
「私のためだけに来たの?」
「そんなもったいない事しないわよ。公園とか、庭園に行くつもり。お花と自然を見に行くのよ。十勝の自然は本当にきれいだから」
母は観光を兼ねて帯広に来ている。
「スマホが鳴っていたわよ。春乃さん、今日はお時間ありませんか?って」
「見たの?」
眠気が覚めるほど春乃はびっくりする。確かに連絡がきていた。
「見えちゃった」
「見ないでよー」
「いいじゃない。安心したわよ。ちゃんと恋愛しているみたいで」
春乃はスマホの連絡に返事をする。
「別にまだ恋愛とかじゃない。知り合ったばかりだから」
「じゃあお見合いしてくれる?」
「はっ?」
「お見合い。春乃に紹介したい人がいるのよ」
春乃は悩む。悩む。悩む。最近出会った営業の男はいい男だった。真面目で優しいのは普通だけど、なにより仕事に熱心な言動が印象的だった。女性へのエスコートもうまいが、時々なにやら仕事の考え事をして、取り柄のエスコートを忘れる。それが玉に瑕だが、そこに春乃は惹かれる。それだけ仕事に真剣なぐらいが春乃には好感だった。
ただ春乃に転勤があるのが苦しい。
春乃は付き合いたいが、将来を思うと色々と考えてしまう。悩んでいた。
春乃は素直に男の事を母に話してみた。春乃は母とはそういう会話もできる。
「悩むぐらいいい男なら、付き合ってみなさいよ。それに別に同居だけが結婚じゃないわよ。離れていたほうがいい関係でいられたりもするから」
「それじゃあ家の事が何もしてあげられないじゃない」
「春乃は意外と古臭い考えなのね。別に家事は女がしてあげるものじゃないわよ」
母もスマホを持ち、エスエヌエスをやっていた。だからいつも柔軟な考えをする。エスエヌエスでは、昔の友人と自分が見た自然や、旅行の自慢をしていた。
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