第15話 現実への苛立ち
太陽が隠れて、夜がきた頃、春乃は医局の自分のデスクで仕事をしていた。患者の診断書を書いたり、病院から頼まれた書類を作成したりしていた。それが終れば、この病院の医局で行っている、うつ病と睡眠障害の治験の結果を論文にまとめる。
治験とは新しい薬を患者に試してみて、その効果や副作用を調べるものだ。必ず患者に同意を得てから行われる。
論文は学会で発表されるものだ。
どの仕事も重要で、春乃は気が抜けない。時々春乃は肩を動かしたり、自分で揉んだりする。
隣の席は土方(ひじかた)という四十五歳の男性医師の席だ。そして目の前の席は医局長で副院長の勝矢(かつや)の席だった。勝矢も男性だが、患者に対する物腰は女性に負けないくらい優しい。病気に対する見識は鋭く、まだ未熟な春乃に毎日鋭い問いかけをしてくるのが勝矢だった。
土方の席には可愛らしい、まだ若い女性の患者の写真が飾ってある。土方がまだ精神科医になる前、がん専門の内科医だった頃に担当していたがん患者だった。
がんの闘病に耐える事ができずに、自ら死を選んだ患者だった。闘病中にうつ病を発症していたような行動が多かった。
土方はその患者の死からまもなく内科医を辞めて、精神科医となった。
「あー、疲れちゃった」
医局のドアを開けて土方が医局に入ってくる。どんなに辛い事があっても、どんな悔しさを抱えていても、平然を装って医師は仕事に邁進する。
「また緩和ケアに行っていたんですか?」
「毎日行かないと、落ち着かなくなってきたんだよ。職業病だね」
土方は患者に接するように、春乃に笑顔を作ってくる。春乃を安心させるためだが、そうされる春乃は、自分はまだ半人前だという感覚になる。
「今日は何かありましたか?」
「遺品整理で悩んでいる話を聞いたよ」
緩和ケアというのは、治る見込みがなくなったがん患者が余生を過ごす病棟だ。
春乃が勤める帯広アウローラ病院は、それなりに大きな病院だ。内科と外科は合わせて五つ、それに産婦人科、小児科、眼科、精神科、泌尿器科、そして緩和ケア科と幅広く地域から患者を受け入れている。精神科よりも循環器内科と外科に有名な医師がいる。
研修医を除けば、この病院の医師で春乃が最も下の地位だった。小間使いのような扱いはされないが、常に何を教わり、吸収する姿勢を求められる。
春乃は何か悩みがあれば、土方に指導を受けたり、相談にのってもらう。
「これだけは誰かに託したい物ってあるからさぁ」
「ありますよね。誰かに託したいものって」
緩和ケアの患者に、病気の苦しさのあまりにうつ病などを発症した患者がいる。土方はそういった患者を一手に引き受けていた。そういう患者の中には、自分の死後をひどく心配する患者がいた。
土方は精神科の患者と、緩和ケアの患者の両方を診る目的で、この病院を選んでいた。
「もっとまだ生きている今に目を向けてほしいけど、それじゃあ駄目なのかもしれないね」
唐突に難しい言葉を土方は春乃に投げかける。
「人生なんて、そんなにいいもんじゃないからね」
土方は平然とそんな事を言ってのける。
「やり残している事を引き出すのも、医師の仕事なのかもしれません」
春乃の答えに、土方は満足そうに頷く。
先輩医師として難しい質問もすると、土方は前もって宣言していた。間違ってもいいから自分の答えを言うように土方は春乃に言っていた。間違う事こそ最高の勉強だとも。
そのうち春乃は今日気になった患者の事を話す。その中に明盛の名前もあった。
「いきなり六万五千円も減ったら、今の俺でも焦るよ」
春乃も土方もそこまで裕福ではない家庭の出身だ。六万五千円の大きさをきちんと理解できている。明盛がまさに死活問題に悩んでいると思っている。死ぬか、生きるかの問題だ。
「障害年金、簡単に申請できるものじゃないのにね。貰う時は大変で、打ち切る時はあっさり。患者が途方に暮れるのもわかるよ」
土方は言う。障害年金のための診断書には数万円かかる。それに加えて患者は他の書類も、病気の症状と戦いながら作らなければならない。自分の力では到底無理な場合があり、法律の専門家に頼む人もいる。
うつ病のような状態で、自分の数年間を振り返る文章も必要だ。その作業は患者にとっては大きな負担になる。
「打ち切るにしても、猶予がありませんよね。経済的に立て直す時間さえもらえない」
春乃の表情は曇る。
「誰のための制度かわからないよ。まるで政治家や行政は取り繕いのために制度を設計しているとしか思えない時がある」
苛立つ土方がいた。がん患者からも経済的な問題を聞かされる事は頻繁にある。
「六万五千円も打ち切って、どうそれを補えばいいかがすっぽり抜け落ちていますね」
「日高さんはごくあたりまえの、物凄い不安と戦っているんだよ」
結論はそうなる。土方は憤怒を覚え、春乃はため息しかでない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます