第10話 病気以外の敵

 看護師から外来待合のホールに明盛が来たと伝えられる。春乃は診察室の扉を開け、明盛を呼ぶ。明盛が診察室に向かってくる。

 明盛が診察室に入ると、しっかりと挨拶を交わし合い、椅子に座って向かい合う。

「きれいに散髪しましたね。お似合いです」

 二週間前、少しぼさぼさだった髪がきれいに整えられていた。精神科の患者には自分の身なりに気を使えなくなる者もいる。それは自分を大切に扱えなくなっているせいだとも言われる。抑うつの症状で身支度する事すら億劫なせいもある。

 明盛にもその兆候があった。いつもジャージ姿で病院に訪れ、ファッションに気を使えない時期があったと過去のカルテに記載されている。春乃が明盛の担当医になったのは一年前で、そのだいぶん前の話になる。

 明盛はその日、齢相応の格好で身なりを整えていた。上から下まで、きちんと気を使っていた。春乃は少し安心する。

「二週間前、障害年金の件で落ち込んでいましたが、その後どうでしたか?」

 大丈夫でしたか、ではなく、どうでしたかと春乃は聞く。

「あれから色々と考えて、インターネットをやめようかと考えています。車も売ってしまおうかと思っています。もうこれ以上落ちぶれたくないので」

 口を開いた明盛は春乃を唖然とさせた。明盛は強い不安に襲われ、この二週間をまったく不安定に過ごしたのだと察した。頓服でいいから、不安を抑える薬を渡すべきだったと思った。

 しかし薬を実際に飲むのは明盛である。患者の意志は何より大切だ。

「インターネットも車も、日高さんの生活には大切なんじゃないかな? 特に車がないと病院や就労支援施設に通うのが大切になりますよね?」

「それはわかっているのですが、そうでもしないと父が残してくれた蓄えが全部なくなりそうで怖いんです」

「失礼ですが、就労支援施設でもらえるお給料は一カ月にどれくらいなんでしょうか?」

「まだ一カ月に三万円がやっとです」

 それは春乃が一カ月にもらう給料に比べて、あまりに少なかった。だからといって春乃が全ての患者に支援をするわけにもいかない。

「せめて障害年金と同じくらい給料がもらえたら、落ち着いてられるのですが」

 明盛が受給していた二級の障害年金は、一カ月におよそ六万五千円だった。

 明盛が不安を貯めこんでいるのと春乃はしっかりと理解する。

 精神科の患者が戦うのは病気の苦しみだけではない。なかなか立て直せない人生が重くのしかかってくる。十年以上も病院に通うような重症な患者の場合、経済問題は避けて通れなくなるのは珍しくもない。

 春乃はこの状況にふさわしい言葉を考える。医師としては病状の回復のために、そんな不安を抱えたままでいてほしくはない。

「ケースワーカーの鈴原(すずはら)さんに相談してみてはどうでしょうか? 一カ月の収入と支出がどれくらいになっているのかを、見直してみるんです。日高さんは堅実だけど、それでも少しでも減らせるものはあるかもしれません」

 春乃は少し冷や冷やした。無駄遣いという単語が頭に浮かんだからだ。患者の尊厳を傷つける言葉をつい使わないか、焦る自分がいた。

 春乃は精神科の専門医になって四年目だが、まだまだ患者への対応に未熟なところがあると春乃自身が思っていた。

 明盛の性格は素直で堅実だ。それは人間としてはいいのだが、精神科の患者としては困る時もある。真面目すぎれば人は余裕がなくなる。ただこの時はいい方向に働き、明盛は素直に鈴原を頼ってみると春乃に伝えた。

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