第9話 無情な決定
結婚ができれば二人はすぐに子供を欲しがった。病院で検査を受けて、子供は作れるとわざわざ医師からお墨付きはもらう。日高の母は婦人科に定期的に通い、医師の助言をメモするほど子作りに熱心だった。それでもそればかりは神の計らいを待つしかなった。
待望の子供である明盛が誕生した時、母は三十六歳になっていた。医師も青ざめたほどの難産だったが、産まれた明盛は健康そのものだった。日高の父の休みには家族で公園でピクニックができる、どこにでもありそうな家族を三人は作っていく。
すくすくと育ち、学校の成績も良かった明盛が理工系の大学に入り、札幌の会社でしっかりと仕事をしていたのに両親は誇らしく思っていた。
仕事にやっと慣れて、これからという時の病気の発症だった。
実家に帰っても明盛の病状は思わしくなかった。副作用に苦しむ事はなかったが、とにかくなかなか効果が出る薬に出会わなかった。強迫性障害よりも抑うつに苦しみだし、布団の中で毎日を過ごす時期さえあった。
明盛が三十の時だった。日高の父にガンが見つかった。進行が進んだガンですぐに手術になったが、その後に転移が見つかった。抗がん剤で日高の父は戦い、三年と言われた命が五年まで伸びた。最後まで日高の父はがんと戦い続けた。
「母さんを頼むな、明盛。母さんは孤独が嫌いな人間だ。今のおまえにはしんどいかもしれないが、母さんを頼む」
二人きりの病室で明盛はその言葉を受け取った。
あたりまえの話だが精神科の患者も誰かの子供で、育てた親がいる。
春乃はそんな命を見つめなければならない。
明盛は今、母と二人で細々と暮らしていた。父が残した蓄えと、僅かな遺族年金が頼りで生きていた。明盛も障害年金を受けているのだが、その打ち切りが先日決定した。明盛の病状が回復して、障害年金の受給に該当しなくなったという。
「むごすぎるじゃん…」
先週の診察の記録を春乃は読み返していて、つい呟く。
誰の人生だって辛い。でもそれがわからない人間がいる。
確かに明盛の病状はここ二年、いい調子で回復してきた。病院のデイケアに通い、週二回ほど就労支援施設で働く事ができていた。抑うつの症状を訴える事はなくなっている。
でもそれだけと言えば、それだけだった。人並に働けて、生活が安定し、障害年金を貯蓄に回しているわけでもない。毎月の支払いや年老いた母の病院代はなにかとかかる。仕事もこれから稼げるという保障はない。
まだまだ障害年金を頼りに生活をしていたのに、今回の決定があった。
「人生って、なんなんでしょうね…」
帯広アウローラ病院の心理士、カウンセラーである戸板(といた)に、明盛はそう漏らし、ひどい落ち込みと焦りを見せていた。
早く回復し、早く仕事がしたい。こういった願いは時に患者の心に、知らず知らずのうちに負担になり、ある日一気に調子を崩す要因になりやすい。
ごく普通の穏やかな生活がしたい。病気の苦痛が少しでも和らいでほしい。その小さく純粋で切実な声、白い声に春乃は今日も耳を傾ける。
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