第1章 年金支給停止編
第7話 帯広アウローラ病院
散歩から帰った春乃はシャワーを浴び、薄い化粧をして、戦闘準備を整えていく。
もうシャイニングの歌は聞いてなかった。病院へと出勤する準備が整うと、春乃は個人的なメールを確認する。田安とは統合失調症について、風菜とは発達障害について、北帝大の准教授になっていた風菜の父からはうつ病全般についてのやり取りが送られてきていた。それぞれが専門に研究しているテーマについてだった。春乃の場合は産後うつに関して自主的に研究を行っていた。
他にも北帝大医局のメーリングリストや、会津日新で同期だった精神科医からメールがいくつも送られてくる。
今の春乃は北帝大医学部、精神科医局の医局員という身分だ。医局から今の帯広の病院に、派遣されているような状態でいる。会津日新医科大を卒業した春乃だが、北海道で働くために北帝大の医局に入った。
朝六時、春乃は愛車の黒い高級車に乗る。
「医者の高い車はステータスだ。できるだけ高い車に乗れ。ドイツ車か国産車がいい。事故でも安全だからな。それに高い車に乗れるって事は、それだけの患者が涙を流してきたって事だ。黒い車は霊柩車みたいで医者にはぴったりだ」
苫小牧で世話になった小原という医師に春乃はそう助言された。それを思い出し、春乃は帯広に来てからその車を新車で買った。母にはずいぶん怒られた。
春乃の高級車が帯広の街を走ってゆく。
帯広の街の端にある勤務先に着くと春乃は医局に直行する。会津日新医大を六年で卒業し、福島で二年、札幌で二年の研修を受けて、春乃は三年前から専門医として働いていた。専門医として苫小牧で二年過ごし、去年からは帯広にいた。
時は二〇一八年の春だった。
医局の机には会津で夏を過ごした写真が飾ってある。研修医二年目の写真で、会津にできていた東日本大震災での被災者のために建てられた復興支援住宅を、風菜とボランティアで訪問した時に、被災者が集まったので撮影した写真だ。
復興支援住宅へのボランティア活動としての訪問は、会津日新の卒業生が有志で始めた。春乃はまだ医師になったばかりだった。できる事は少なかったが、とにかく被災者に耳を傾けた。
春乃は北海道に帰る時、福島の人々にずいぶん帰らないでくれと泣かれた。
でも春乃は福島にはいられなかった。とにかく福島の夏に春乃は弱く、夏バテがひどかった。それだけなら良かったが、暑い夏の汗がひどく、皮膚病に悩まされて、皮膚科の医師から北海道に帰るのを促された。
本望ではないが、春乃は北海道に帰ってきた。
しかし北海道に戻って医師として働いていくと、会津が懐かしい気持ちなど簡単にかき消された。春乃の心は医師生活で忙殺されている。
春乃は今、帯広アウローラ病院の精神科医師として働いている。
帯広アウローラ病院の医局で春乃は医療従事者用の、インナーが透けない半袖に着替える。長い髪をまとめて、家で整えてきた薄い化粧がおかしくないか、鏡でチェックをする。
午前七時、春乃は病院の精神科病棟に出向く。閉鎖病棟の扉を男性の看護師に開けてもらうと、いよいよ病棟へと入っていく。颯爽と歩けば、女武将のようになる。
朝の患者は気だるそうにしている者が多い。どの患者ももう起きて、身支度を終えている。喫煙室は朝から盛況だった。間違って外に出ないように僅かしか開かない窓の外を、廊下から見ている老婆がいる。若い女性達が談話ルームに集まっていたが、会話はあまり弾んでないようだった。
年配の患者は集まって、テレビを真剣に見ていた。
「星先生、おはようございます」
廊下にいたとても真面目な性格の男性が、しっかりと挨拶をしてくる。曲がった事を極度に嫌う男性だった。どの医師にもきちんと挨拶する。
「おはようございます」
春乃はやや元気よく、やや和らげな表情を作って挨拶をする。患者との距離は近くても遠くてもいけない。微妙な距離を保つ笑顔が春乃はうまいと言われる。アイドル志望だっただけに、春乃は医師になって表情筋を鍛え上げた。
ただいつも患者に適切な言葉を見つけるのに春乃は苦労している。
ナースステーションに入ると春乃は看護師達に軽く挨拶して、すぐに患者のカルテを見ていく。見落としがないように、けれども素早く読んでいく。カルテには排尿回数、睡眠時間、食事量、頓服の使用状況と、看護師が気になった事が書かれている。
次に春乃は自分が気になった点を看護師と話し合って、問題があれば看護計画を修正したり、直接患者に話を聞きにいく。閉鎖病棟の仕事を終えてから、開放病棟にも出向く。
九時が近づく頃、春乃は診察のために外来に行く。入院患者の一部はデイケア棟から作業療法士が迎えにきて、朝の運動が始まる。
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