第6話 南の愚鈍

 十八歳の吉報は、春乃にも届く。

 試験から十日後、春乃に会津日新医科大学の医学部医学科から合格の知らせが届いた。いくら手応えを感じていたとはいえ、春乃は夢じゃないかと何度も思う。喜びというより、自分の医師への道が続いていくという実感をなかなか持てないというのが、春乃の正直な気持ちだった。

 慌ただしく、春乃は進学準備を始める。父が会津に行き、春乃のために過ごしやすいマンションを探す。母は春乃の新生活のために必要な物を揃えていく。

 その年の四月は暖かった。北海道の四月とは比べ物にならない会津の暖かさに驚きながら、春乃はまだまだ校舎が新しい会津日新医科大学に入学する。

 入学式で医学生となった春乃を見て、母は震えるほど感動して、ハンカチを握り締めた。

 当時は平穏だった福島の会津の街は、長閑で、鶴ヶ城の桜が見頃になるのを街の人々はまだか、まだかと待っていた。

 入学式までの一週間、春乃は苦手な自炊の特訓を受けた。器用ではない春乃だったが、味付けは本に書いてある通りにしなさいときつく言われたのが功を奏し、見栄えは悪いがそれなりの料理ができるようになった。

「留年と太るのだけは許さないから」

 母はそう言って、会津から北海道に帰っていった。

 過酷な医大の生活はすぐに始まった。コンパに明け暮れるテレビの中の大学生活とは違い、春乃達一年生はオリエンテーションでとことん脅される。まず六年後の国家試験に何人が落ちて、落ちた者がどんな惨めな生活をするかから始まる。次に六年間で読まなくてはいけない医学書や論文の数が教えられ、最後に患者の声が聞かさせられる。治らない病気でありながら、戦い続ける患者の声、それも字がやっと書けるぐらいの小児の声だった。

 よく学び、よく遊ぶ医学生など出鱈目だと教えられる。周りが止めるまで勉学の手を止めるなと教えられる。

 医学部に合格したという浮ついた気分は、雲の上の存在である教授達が自ら一週間かけて粉々に壊していく。医師になるために必要なのは、一時も無駄にせずに勉学に励む事だった。

 そうして一週間が過ぎた後に、恐ろしいほどのレポートや課題が待っている。単位を人質にされて、誰も遊ぶ事など考えられなくなっていく。

 どの課題も受験並みに難しかった。その課題が終る頃はもう五月だった。春乃はその年、鶴ヶ城で花見をする事もなかった。三月に感じていた合格の喜びや誇らしい入学の気分など、もはやずたずたになっていた。

 五月の連休を春乃はマンションに閉じこもって、ひたすら勉強漬けになっていた。ガラケーは鳴らない。親も風菜も、大学の同期も誰も連絡などしてこない。北帝大の課題は風菜ですらすでに泣きたくなっていた。春乃の両親も親心を見せない。

 連休最後の日、明日までの課題をやっと終えた後、春乃は気が抜けて眠ってしまった。起きるとマンションから会津の夕暮れが見えていた。

「お母さん、ご飯…」

 眠りから覚めても春乃は疲れ切っていた。すでに部屋の台所には、コンビニ弁当の容器がいくつもあった。ただしその容器は洗われていた。母親の言いつけなどとっくに破られていたが、カップラーメンの容器はまだなかった。洗ってあるだけ春乃はまともだった。

 また春乃はコンビニに向かう。いつものコンビニに飽きたので、自転車で少し遠いコンビニに向かった。

 途中でいい匂いを春乃は嗅いだ。昔ながらの定食屋があった。

「いらっしゃいませ」

 春乃がその定食屋に入ると、小柄な女性が元気よく挨拶をしてきた。春乃は野菜定食というのを頼んだ。

 昔ながらの定食屋のテレビは、やはり野球中継を放送していた。六人ほどいた客は男ばかりで、腕を組んだりしながら、ビールと一緒に定食を食べていた。

 また一人、客が訪れる。中年の痩せた男だった。どこかの席と相席しないと男は座れなかった。春乃と視線が合い、春乃は頷く。男は春乃の前に座り、とんかつ定食とビールを頼んだ。

 中年の男も野球中継をじっと見ていた。そしてビールを飲んでゆく。

「君は飲まないの?」

 男が春乃に口を開いてきた。

「まだ十八なんです」

「ああ、そっか。まずいね」

 男はじっと春乃を見てきた。

「確かにまだ高校生の顔をしている」

 久しぶりに聞いた高校生という響きは春乃にはすでに甘美だ。

「出身は?」

「北海道です」

「今は何やっているの?」

「医大に通い始めたばかりです」

 春乃は会津の人に嫌われたくないと、正直に気持ちよく答えた。

「ああ、南の愚鈍か」

「南の愚鈍?」

 春乃が初めて聞く言葉だった。あまりいい響きでないのはわかった。

「会津の人は北にある会津新技術大を北の馬鹿、南にある日新医大を南の愚鈍と言うんだよ」

 見ず知らずの人に通っている大学を愚鈍と言われるのは心外で、春乃は思いっきり嫌な顔をした。

 会津新技術大は会津日新医科大学より前にでき、コンピュータを専門に教えていた。会津新技術大は県立で、会津日新医科大は国立だった。

「どうして愚鈍なんですか?」

「どこの医大も合格できそうないから、とりあえず選んだ奴が多いんだよ。だからというわけじゃないが、国家試験の合格率が悪い。会津にいるのに、会津の歴史を学ぼうとしない。そしてこれは日本の医学生のほとんどだが、高校の成績がいいから医大を選んだ奴が多すぎる」

 春乃は耳を塞ぎ、逃げたくなる。もう大学の関係者なのはわかった。

「北の馬鹿は?」

「あいつらはいい環境を与えられているのに、まったく勉強をしないらしい。それだけならいいが、自分もジョブズやゲイツになろうとさえしない、馬鹿になれない馬鹿だよ」

 春乃はジョブズやゲイツを知らなかった。

「北帝大では草尾(くさお)風菜さんも頑張っているとさ、星春乃ちゃん」

 自分の名前と風菜の名を出されて、春乃は固まってしまった。

「どなたでしたでしょうか?」

「田安(たやす)という単なる日新医大の精神科准教授だよ。北帝大にいた頃はただの講師で、草尾先生に指導してもらっていたけどね。去年、会津に来たんだよ」

 世の中は本当に狭かった。

「精神科志望なんだよね? これからよろしくな」

 春乃は握手を求められ、その手を思わず握ってしまった。

 その時、春乃は精神科の医局に入ったようなものだった。

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