第4話 会津日新医科大学

 二年前までアイドルに夢中なだけの少女だった娘が、いつの間にか変わったのを春乃の母は実感した。

 母は親として調べた事を伝える決意をした。母はソファーから立ち上がり、自分の部屋に一度行くと、大きな封筒を一つ持ってきた。その中にはある大学のパンフレットが一冊入っていた。

「会津日新医科大学?」

 聞いた事のない大学名を春乃は目にした。国立の医科大学だった。

「できてまだ十年ぐらいの新しい大学だから、偏差値もあまり高くないの。それに会津は東京よりは物価が安いし、危ない事も少ないと思うの」

 春乃はパンフレットをめくってみる。キャンパスは真新しく、会津の自然もきれいだった。

「日新って、なんなの?」

 春乃が母に聞いた。

「日新館という学校が、江戸時代の会津にはあったのよ。その名残よ」

「お母さん、詳しいんだね」

 歴史に強い母の一面を春乃は初めて知った。

「考えてみるね」

 春乃はどうせ第二志望校を決めないといけなかった。さすがに私立の医科大学は駄目だと母は春乃に告げていた。国立か公立で、春乃は北帝大とは別に試験を受けるつもりだった。

 両親は春乃に浪人した場合は、翌年の医学部受験は一校のみで、後は他の進路を考えるように春乃に話していた。一年の浪人は両親も自分を認めた証拠であり、春乃はチャンスが三回できた事に素直に感謝した。

 医学部医学科に落ちたら、作業療法士になると春乃は決めていた。

 秋になる頃、春乃は風邪をひいてしまった。近くの内科と小児科を併設しているクリニックを受診する。そこは春乃が小さい頃から頻繁に受診してきたクリニックで、院長は女医だった。春乃は自分の小さな胸を男の医師に見せたくなくて、ずっと女医を頼っていた。

 受診するのは高校一年以来だった。その時も風邪だった。鼻をすすったり、かんだりしながら診察を待つ。待合室でかんだが、トイレでかむべきだったと春乃は思った。そういった恥じらいも、春乃は高校生活で身につけた。

 クリニックは赤ん坊の泣き声や、子供の声で騒がしかった。受診までの時間は長かった。それでも春乃はじっと待ち、やがて時間がきた。

「春乃、三日間は安静にしなさい。高校も休んで、勉強も禁止ね」

 中学時代ぐらいから、春乃は女医に呼び捨てにされた。それに春乃は嫌な気分にならなかった。むしろ親しみやすさを覚えた。

「えー」

「えー、じゃないでしょ。医学部受験するんでしょ。だったら病気の時は無理しない」

「医学部受験の事、知っているんですか?」

「前にお母さんが話してくれたの」

「お母さん、なんか病気なの?」

「ただの風邪だったから安心して。春乃にうつしたくないから、早めにきたのよ。もうずっと前の話よ」

 女医はきちんと聴診器を使い、短い時間で丹念に春乃を診察し、それをカルテに手早く書いてゆく。

「医師になるのは怖くて、よくわからなくて、やりたいわけじゃないんだって?」

「お母さん、そんな事まで話したの?」

 診察が終わり、春乃はきちんと制服を直す。春乃はいつでもならべく制服を着ていた。そこはアイドル志望だった名残だ。

 春乃は自分が医学部志望なのを女医に知られた事に委縮した。

「私の後輩になるのね」

「先生も北帝大医学部だったんですか?」

「北帝大ではなかったけれど、医者の後輩じゃない」

 言われてみれば、確かにそうだと春乃は頷く。

「私はね、最初、産科医だったの」

 女医はいきなり春乃が驚く事を言う。

「じゃあどうして今は内科なんですか?」

「産科はわからない事ばがりで、疲れて、そして怖くなって辞めたのよ。今もまだ、またもう一度やりたいとは思わない」

 その答えを女医は真顔で答えた。

 春乃は唾を飲み込む。

「考えてみて、春乃。産科は昨日まで元気そうだったお母さんや赤ちゃんが、突然亡くなる事もあるの。でもなぜそうなったのかわからない事もある。まず怖くなる。そしてそれは珍しい事じゃない。医療の現場は毎日わからない事だらけで余計に怖くなる。そしてそんな毎日にだんだん疲れてきて、私はついに逃げ出したのよ」

 女医はいつもとは違い、春乃には怖いほど真剣な顔で伝えてきた。

「私には無理だという事ですか?」

 真摯な女医の話に春乃はますます医師になるのに恐怖を覚える。

「逆よ。春乃は医者の仕事をよく想像できている。春乃の答えは正解よ。だからそのまま医者になってほしいの」

 そう言うと女医はいつもの柔らかい医師の顔に戻った。

 クリニックからの帰り道、春乃は自分が本当に医師になっていいのかを考えた。答えは簡単には出ない。ただ一つ春乃がわかっていたのは、医学部に合格すればもう逃げ場がないという事だった。秋風は強く、夜の長い季節が始まろうとしていた。

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