第3話 一歩ずつ、少しずつ
その日の夕方、保健師の仕事から帰ってきた母親に夕食の準備を手伝いながら、今日の風菜とのやり取りを春乃は話してみた。
「お母さんはどう思う? 私が医者になるって」
「簡単に言わないでよ。春乃は高校に入ってもあんまり勉強しないじゃない」
アイドルに夢中で春乃の勉強時間は少ない。子供の頃から母親が渡す問題集をすらすら解いて、地頭が良いのはわかっているが、あまりに呑気だ。
「別に精神科で働きたいのなら、作業療法士とか、色々あるのよ」
「へー。後で調べてみよう」
春乃はすぐに当時のガラパゴス携帯電話のメモ機能に、「さぎょうりょうほうし」と打ち込んだ。
「やっぱり医者は駄目だよね。学費が高いのは私でも知っているから」
「B判定でもとってから言いなさいよ! 現実感がないのよ」
「それもそうだね。でもB判定とれたらどうするの?」
「勉強して、とってから言いなさい!」
毎日テレビのレコーダーをいじって、アイドルのテレビ番組ばかり見ている娘が、いきなり突拍子もない夢を語るのに母親は付き合っていられなかった。
「それにしても本当に医者になりたいの?」
「別に…。ちょっと嫌なくらいかな?」
「なんなの、それ。やりたくもないのにやるの?」
「なんかひっかかるんだよね。とりあえず勉強はしておこうかな?」
情熱があるのかないのかわからない娘の考えが、母親は本当にわからなかった。
ともかく春乃はこの日から、アイドルへの情熱を抑え、勉強をするように心がけた。なんとなくアイドルにはなれそうになかったのもあるが、風菜が語った精神科の世界に変な興奮を覚えた。風菜から褒められたのは、なんだか精神科の世界に呼ばれたような感覚だった。
春乃には風菜という、いい併走者がいた。とにかく最初、春乃は勉強を習慣にするようにきつく言われた。好きな教科を、自分が理解できる範囲で勉強するように指定された。
春乃は元々、地頭は良かったし、高校も大学受験を目指す授業しかやっていなかった。自分の偏差値などまるで気にしていなかった春乃だが、めきめき力をつけていった。
高校二年の秋になっていた。春乃の偏差値や実力は確かに上がっていた。それでも北海道帝王大学の医学部は難関だ。歴史が古く、名門大学と呼ばれている。医学部医学科の定員は僅か百名。そこを全国各地の医者になりたい猛者が受験をする。
「ダメだ。またE判定だった…」
春乃はその日も模試の結果に項垂れていた。
「まだ慌てる時期じゃない。まだ一年もあるから大丈夫」
風菜はそう言って春奈を励ました。
「でもさぁ。全国の天才と戦うんだよ」
「そんな弱気、いらないよ。今はまだ模試じゃない。私達は受験の日に最高にいい点をとる勉強をすればいいだけ。弱気は邪念だよ」
教室では寡黙な生徒だったが、風菜には意外な根性があった。
高校三年の夏になっていた。六月の模試でも春乃はE判定だった。
「春乃、まだ北帝大医学部に拘っているの?」
模試の結果を春乃は母に見せていた。母も北帝大医学部しか志望校に書かない娘が、本気で医師を目指しているを理解しだしていた。
リビングのソファーに親子並んで座っていた。
「風菜が北帝大に行くんだもん。風菜はいつもA判定か、B判定だから、北帝大に受かるだろうし。風菜と一緒に勉強したいの」
「それはわかるけど、そもそも本当に医師になりたいの?」
「怖いけど、少し」
「まだ怖いの! それに少しなの!」
母は熱心に勉強に打ち込んでいる娘が、まだそんな思いだとは思わなかった。
「だってネットで調べても精神病はなんで簡単に治せないのかわからないし、病気の人の声は怖いよ。マイナスの感情、マイナスの言葉ばかりだし、死にたいとか、消えたいとか、そんな表現がネットにはいっぱい書いてあるんだよ」
春乃はパソコンで、精神科の世界を調べていた。そこから発せられる言葉は、まだ若い春乃には重く、処理できないものばかりだった。
「でもやってみたいの?」
母は春乃に聞いた。
「やる気がないわけじゃないけど、やりたいなんて簡単に言いたくない」
やりたいなんて簡単に言いたくないという春乃の仕事観に母が驚く。それは仕事の重みがわかった、深さのある言葉だ。
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