世紀の片想い(中編)

入川 夏聞

本文

      一


 背筋に伝う、この氷に直に触れたような冷たさは、よもや苔むした岩天井から落ちる湿り気のせいではあるまい。

 イエルドは、もう一度、両手全体で剣の柄を握り直した。滑り止めの麻布が摩擦でぶちぶちと音を立てるほど握りこむと、鋼の柄に彫られた伝家の円い銘が、ようやく手のひらに感触を残す。それが確かであればあるほど、全身に力がみなぎるように感じられるのだ。

(今宵は、一段と銘が深い)

 数歩先の暗闇から、スラリとしなやかな金属音、研ぎ澄まされた刃の調べが響く。いよいよ、抜いたらしい。

 黒いフードに覆われた中から瘴気のごとく溢れでるその殺気は、疑いようもなく彼女が熟達した、異教徒の暗殺者であることを示している。

(俺の殺気に、向かってくるだけの……手練れか)

 今のイエルドには些かも自惚れはないが、人生最後になるかも知れぬこの瞬間に相対した敵手てきしゅのシルエットが女であると言う事実は、むしろ彼を戦慄させた。

 暗闇からわかるのは、もちろん強烈な殺気だけだが、今夜だけは、天井の通気口から漏れてくる王都を焦がす炎のゆらめきが、暗殺者のなめらかな身体の線を時折、暗闇から浮かび上がらせる。剣舞の女は、侮れない。

 我がノインツ家だけに代々伝わる、王宮の中心へ連なるこの地下道にも、敵……。

 イエルドは思わず、ふとももに差した短刀に触れた。死闘が始まるとき、彼の脳裏に去来するのは、かつて生き別れた親友のことだった。


      二


「……いや、戦場をうろうろとしていたでな。つい、かっさらって来てしまったわい!」

 俺の親父は本当にあきれた奴で、こういう世紀のお人好しだった。

 親父はその日、戦場から異教徒の子供を拾ってきて、奴隷のマラーク婆にあてがった。庭の北側にある婆のあばら家前で、俺はその現場に居合わせた。

 俺はまだイエルドと言う正式な名を与えられたばかりの半人前で、その子供は、俺より更に二歳ばかりは小さかったと思う。


 マラーク婆はあいつを見て一瞬、止まった。


 乞食みたいなガキだったから、単純に臭かったのだろう。鼻を摘まんだ俺と目があうと、婆はにたりと笑うので、俺も笑い返してやった。

「やれやれ、神様のお導きだね」

「何が神様だ、異教徒じゃないか! くせぇくせえ!」

 俺はそいつをからかってやった。さっきから物欲しそうな顔で見つめてきやがるからだ。俺は、物乞いが嫌いだった。特にそいつには、胸がざわついた。

 乞食みたいに呆けていたくせに、俺のその声を聞くや、そいつは目を大きく見開いて、泣き顔のような怒りの表情でにらみ返してきやがった。

「イエルド! 神は同じだ、異教徒だからと差別する理由にはならん!」

 俺はお人好しの親父に怒られ、向こうは向こうで、もう親子ごっこのようだ。

「およし、ナヒフやせっぽち。あいつは世紀のお人好しから生まれた、世紀の鈍感野郎でね。人の心がまるで読めないのさ。もう、お入り。つもる話もあろうさ……」

 そう言って、二人は小屋に隠れてしまった。


「親父。まさか、あいつも円卓につけるの?」

「当然だ。イエルド、王直属の騎士である我が家の家訓は、覚えているな」

『一度円卓についたからには、何人も欠けさせてはならない』

 あいつも、今夜の夕食の頃には、俺が身命を賭けて守るべき対象となるのだ。

 俺は心底、うんざりした。


      三


 ナヒフは、剣が上手かった。しかも、女だった。殺してやりたいほど悔しかった。

 俺は名門騎士の生まれで、剣の筋も良いと評判だった。だが、我が家の稽古場での評価は、あっという間にナヒフに奪われてしまった。

 あいつは重い両手剣はもちろんダメだったが、軽い短刀を両手で操る格闘戦のセンスは、正直、神がかっていた。

 ナヒフとの稽古でいつも地面を叩いて悔しがる俺に、マラーク婆は言った。

「ヒェっヒェ。それは南方の伝統的な剣舞でね、世の中、力だけじゃないと言うことさ」

「うるせー! もう一本!」

「イエルド、もう止めよう。血が出て……」

「さわるな!」

 ナヒフはいつも、俺に優しかった。それが、俺に屈辱的な敗北の臭いを嗅がせて、不快だった。

「ヒェっヒェ! ナヒフ、アタシはあんたのには手は貸せないからねえ」

 高笑いする婆のイヤミが耳障りだった。俺はそれを振り払うため、何度も立ち上がった。そして、毎日ナヒフに叩きのめされた。


 ある晩、俺は遂に、夜中にも自分で稽古をすることにした。ナヒフには文字通り百篇挑んでも敵わない。悔しい。あいつのなぐさめが、頭にくる。


『僕は負けないよ、イエルド。僕はね、いつか君の家来になりたいんだ。奴隷同然の僕がそうなるには、それ相応に、実力を示す必要がある』


 それで、男言葉まで使って、毎日俺をボコボコにすると。

 上等だ! 馬鹿にしやがって。

 その涼しげで綺麗にまとまった顔を、泣きっ面にしてやる!


 勇んで月明かりの川原まで出た俺は、膝から崩れ落ちた。

 ナヒフだ。ナヒフが、河原に立てた無数の木の杭で稽古をしている。

 俺は、何だかさっきまでの自分が恥ずかしくなって、背の高い草影に身を隠しながら、近づいた。

 ナヒフのが光った。短刀を高速で回したのだ。

 こぉん、と音がした。で、杭を切ったのだ。

 それは、月夜の光を反射する美しい剣の舞いそのものだった。そして、奴の真剣な目が、俺に強者とはどういうものか、教えてくれているようだった。

 俺は叢から出て、ナヒフの前にひれ伏した。奴の強さ、真剣さ、そして何より、それまで奴が見せてくれた誠実さが、素直に俺をそうさせた。

 あいつは、まだ両肩から蒸気けぶる姿で、俺の両手を取ってくれた。

「前にも言ったろ、イエルド。僕はね、君の家来になりたいんだ。そして、ずっと、君と一緒にいたい」

「……なぜ?」

「大きな恩義が、あるからさ」


 俺は、まだ馬の鞍にもろくに届かなそうなチビ女のナヒフに、まだ見ぬ騎士の理想を見た。

 その日以来、俺たちは親友となった。


 だが、それから一年後、南方諸国が連合を組み、攻め込んできた。我が王都はかろうじて陥落を免れたが、街の一部は焼け野原になった。そこには、俺の屋敷も含まれる。

 ナヒフは奴隷だから、真っ先に屋敷の守りに立つ。泣き叫ぶ俺を、王宮への隠し通路に押し込めながら、ナヒフは<誓いの礼>を執ってくれた。

『必ず、戻るからね。待っていて、イエルド』

 俺は、ナヒフの泣き顔を遂に見なかった。

 あいつは、俺に心配かけまいと、最後まで笑っていた。

 戦いのあと、俺が館の廃墟から見つけたのは、片方の短剣だけだった。

 マラーク婆も消えて、親父も、戦死した。

 俺の円卓は、俺の非力のせいで、一晩で三つも、欠けてしまった。

 俺の、せいで。


      四


 イエルドの切っ先は何度も空を切っている。この相手は、南方剣舞の達人と言って良い。

(ナヒフ! お前との稽古のおかげだ、こいつの剣舞について行けるのは。いつもお前は、俺のために……)

 お互いに必殺の間合いで切りあっている。

 幾合か後、イエルドが下から振り上げた剣は、唐突に空を切った。

「な、に」

 イエルドの切っ先に見えるのは、高速回転している、の短刀。反射的に、イエルドは死角にあるはずのに切りかかった。だが、途中で止めた。

(俺も、強くなったな……)

 左手側の短刀も、くるくると妖しく回っていた。だ。

「サンキュー、ナヒフ!」

 低い姿勢のまま、相手に届くよう右手一本に渾身の力で、イエルドは両手剣を振り払った。


「ぐふっ」


 イエルドは、剣を失った。右手首の腱は切られ、相手の捨て身のタックルにノックダウンを許した。相手の腕は、すでに正面から、イエルドの首に巻きついている。このまま、息の根を止められるだろう。

 だが倒れ込む際に、形見であるナヒフの短剣で、相手の腿にある大動脈を切った。もう死ぬまで止まらぬ相手の生温かい血潮は、この左手で今、確認している。ちょうど、女を抱きすぼめているようで、滑稽だ。これで、王も無事……。


 最後の戯れに、聞いた。


「……完敗だ。俺は、強かったか」


「……うん。すごく強かったよ、イエルド」


「……!」

 気づくと殺気もなく、女は、首筋に巻きついたまま、震えていた。

「な……」

「さすがに、鈍感すぎる。なんでそんなに、強くなってるのさ……あんなに殺気立ってちゃ、挑むしか、ないじゃないか」

「あ……ナヒフ、なのか。ナヒフなのか?!」

「ああ……やせっぽち、だろ?」

「あ、血が。待て、待ってくれ!」

 起き上がりたいが、起き上がれない。左手の滑りが、もう鏡面に油を満たしたようになっている。イエルドは無様に手足をばたつかせた。

「もう……このままで、いいじゃないか」

「あ、あ、ナヒフ! 待て! そんな……」


 カツーン、と、杖の音がした。

「ヒェっヒェ。上手くは行かないねえ……」

「ああ?! マラーク婆! もう何でもいい、ナヒフを! ナヒフを助けてくれ! 何でもする!」

「本当かい?」

「頼む!!」

「やれやれ、ナヒフはどうだい?」

「イエルド、僕ね……あれから、本当に、頑張ったんだ。何でも、したよ。たくさん、殺したし、たくさん……汚れちゃった。でも、ぜんぜん、平気だった。だって」

「もういい! もう、十分、わかった、治療を……ばばあ! おい、ババア!!」

 イエルドの叫び声は、彼の唇にそっとふれた、ナヒフの口づけでかき消され、虚しく暗闇へと、吸い込まれていった。

「一緒に、なりたかったんだ。ずっと」

 ナヒフの泣き顔を、イエルドは初めて見た。

「……またね」

 彼女の身体から急速に温もりが失われるのをどうしようもなく、イエルドはいつまでも咆哮していた。最後の言葉の意味も、わからずに。


 カツーン、と、杖の音がした。


――今度はあんたの番、また、どんでん返しさね。

 

      五


「きみ。私の最終面接で、何、泣いてるの?」


 目の前の派手な女社長を前にした僕は、そのフラッシュバックに、涙を払うことも出来なかった。


「……はあ。ほら、志望動機。適当に、どうぞ」


……わかったよ。今度こそ、俺は、間違えない。


「はい、私をあなたの家来に、して下さい!!」


(了)

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