第4話 怖くなんてない
それから二日ほど、イルザークは帰ってこなかった。
森のなかの家にはもともと外の情報が入ってこない。町がどうなっているのかも把握できないまま、リディアとアデルはいまだ微妙な距離感で、しかし徐々にいつも通りのテンポを取り戻しつつ師の帰還を待ち侘びていた。
一度訪問してきたオルガなどは呑気なもので、リディアの焼いたパウンドケーキを一口で飲み込み、
「死ねば契約を交わした蜥蜴が察知する。報せもないということは、そういうことだ」
とたいへん大雑把に弟子たちを励まして森へ帰っていった。
リディアが〈穴〉に落っこちたあの日から五日。
イルザークの提示した九日間という期限にはまだ数日あるが、リディアの決意は固かったし、また彼女が頑固なことをアデルも知っている。リディアに泣きつかれたココがひっそり思っていたように、少女に滅法甘い少年のほうがやや絆されるかたちで時間は過ぎていった。
「そういえば……」
完成したメイベルのジレをお披露目し、コルシュカに一通りお褒めの言葉を頂いたあとで、リディアはふと眉を寄せた。
今日もソファで読書をしているアデルが無言で視線を寄越す。
「ココおばぁちゃん、大丈夫かな。先生に報告する余裕もなかったんだけど、この間ちょっと咳してたの」
「……一応、常備薬は渡してあるよね?」
「うん。いつも通りパンや牛乳を配達してもらえているなら食事も心配ないけど、こんな状況だし、もしかしたらジャンも外に出てないかも」
アデルはぱたりと分厚い本を閉じて、窓際に寄り天海を見上げた。
リディアには全くわからないけれど、人の魔力には色があるのだという。アデルやオルガの目には視えていて、イルザークやシュリカは感じることができる。彼はしばらく、穏やかな陽射しの降りそそぐベルトリカの森の木々や、その遥か上に聳える海を睨んでいた。
「どう。なにか変な感じ、する?」
「ん……特別おかしな魔力の気配があるとか、そういうのはない、けど」
「けど?」リディアはこてりと首を傾げた。
アデルは嫌そうな顔つきで、しゃっと勢いよくカーテンを閉める。
「……大丈夫だよ。ただ外に出るのはやめたほうがいいと思う。おばぁちゃんのこと、心配だろうけど」
明らかになにかを誤魔化そうとする話し方だったし、窓の外にいる何者かの視線を遮るような仕草だった。
だてにずっと一緒にいない。
アデルのこの態度は、大丈夫なんかじゃない。
「なにかいるんでしょ」
ただでさえイルザーク不在の不安を抱えている。アデルの腕に触れると、彼は小さく息を吐いた。
彼も彼でまた、彼女を誤魔化すのがそう簡単でないことはわかっているのだ。
「……嫌がらせみたいなものなんだ。家の周りをうろうろしているだけ。リディアは気にしなくていいから」
「うろうろしてるの……? ずっと?」
「そう。先生もオルガも知ってる。恐らくは、誰がやっているのかも。先生が出立してからも止まないし、嫌がらせの標的はどうもぼくらなんだけど、特別なにかしようという意思はないみたいだから放っておいてるみたい」
これまで一切知らされていなかった事実に、リディアはぽかんと口を開けて絶句した。
微塵も気づかず呑気に普段通り暮らして、〈穴〉に落っこちて周りに心配をかけた挙句、こっそり外出してふらふらオクに出歩いたのだ。アデルがあの日わざわざついてきたのはそういう理由があったのだと、今更把握する。
「い……、言ってくれれば一人でふらふらしなかったのにぃ」
まるで弁解のお手本みたいな台詞が零れ落ちた。
自己嫌悪や呑気な自分への恥ずかしさからの言葉だと、声音と表情で見抜いたアデルは特に反論することなくうなずく。
「視えないリディアを不安にさせたくなかったから。黙っててごめん」
「アデルはすぐ自分だけで全部解決しようとする……」
「うん。ごめんね」
悪びれずこてりと小首を傾げたアデルを一度ばしっと叩いて、リディアは先程彼が隙間なく閉めたカーテンを再び引いた。
この目にはなにも視えない、いつも通りのベルトリカの森があるだけの景色。
──負けるものか。
「ふんっ。つかず離れずネチネチ嫌がらせするなんて情けないっ! 文句あるなら正面から堂々と言いにきなさいよねっ」
「なにやってんの」
「そしたらコルシュカの火の粉攻撃と、倉庫にたくさん眠ってるヤバイ薬と、お台所の唐辛子の粉と、それからそれからわたしの編み棒でぎたぎたにして撃退してやるんだから!」
「物騒だなぁ……」
「ぜーんぜんっ、怖くなんてないもん!」
高く通る声でリディアが勢いよく啖呵を切ったとき、その挑発に応えるようにして掃き出し窓の上部になにかが激しく激突した。
「ひええっ」
さすがに早々に反撃されるとは思っていなかった。
飛び上がってアデルの腕に抱きつくと、窓に衝突してきた影がバサバサともがきながら地面に落ちる。よく見ると窓に罅まで入っていた。よっぽど勢いよく突っ込んできたらしい。
恐る恐る窓越しに観察して、その正体を理解した瞬間、リディアは窓を全開にした。
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