第5話 だってわたしには視えない
「リディア?」
「〈鳥〉だ。──ココおばぁちゃんのところの伝書鳥!」
なにかあれば鳥を飛ばす、飛ばせ、そう約束事のように交わされる〈鳥〉そのものである。
イルザークが特別な材料でつくった木彫りの小鳥で、渡された相手が魔力を籠めて飛ばせば、魔力の色を体に通わせて命令通りの場所に飛んでくる。メイベルなら紅梅色、シュリカなら落葉色。ココの鳥が実際に飛んでくるのははじめてだが、師から色だけは教えられていた。リディアの目と同じ、とうめいな薄みどり。
リディアが鳥を抱き上げると、アデルは続けざまに窓を閉める。もしかしたら彼の言う嫌がらせが侵入してこようとしたのかもしれない。
「なにか手紙が?」
伝書鳥は高位魔法の口寄せと違って術者の声を直接伝えるものではない。普通は用件を書いた手紙を脚に結わえて飛ばすものだった。
アデルの問いに、窓に激突したせいでぐったりしている鳥の脚や嘴を見てみる。
「なにもついてない。おかしいな、でも……」
──なにかあったら鳥を飛ばすわ。
確かにそう言った。
〈鳥〉は過失で勝手に飛んでいくようなものではない。魔力を籠めて、例えば「イルザークのところへ」と命令しない限りはここに辿りつけないようなものだ。
「……手紙も書けなかった?」
ぱ、とアデルを見上げる。
彼も同時にその可能性を考えたようで、きゅっと唇を引き結んだ。
「魔力を籠めて飛ばすだけで精一杯だった。そう考えたほうがいい」
「……行こう、アデル!」
「待って」
腕のなかの鳥が色を失い、元通りの木彫りに変化する。
注がれていた魔力の喪失。──術者の意識の喪失を意味する。
「先生は『鍵をかけて家から出るな』って言った。外には、行かせられない」
「なんでそんなこと言うの? おばぁちゃんが危ないかもしれないんだよ!?」
「ぼくの最優先はリディアの安全だ」
アデルの白い両手が、リディアの腕をしっかと掴んだ。痛いくらい握りしめられる。その手が震えているのがよくわかった。
怒りか、焦りか。
「わかってよ。……狙われてるんだよぼくら! このタイミング間違いなく《黒き魔法使い》か、最悪魔王自身の使い魔に、只人の弟子のぼくたちが狙われている。この家のなかにいさえすれば先生の結界で守られる。出たらなにが起きるかわからないんだよ!」
「だってわたしには視えない!」
ぎゅ、と手の中の鳥を胸元に抱く。
「わたしに見えるのはココおばぁちゃんが助けを求めて飛ばしてきたこの子だけだもの」
「リディア……!」
「アデルに視えるものを疑うつもりはないけど、じゃあアデルにはこの子が見えない?」
掴まれているこの腕の痛みはそのままアデルの心だ。
ココの危機を知って救けに行きたい彼の良心と、二人の身の安全という正義とのあいだで揺れて、いまにも叫び出してしまいそうなアデルの痛み。
「この間、アデルはいつもわたしの枷になるって言ったけど。わたしだってその気になったら、アデルのことなんて構わず走りだしてしまえるんだからね!」
片手でその肩を押して逃げだした。
アデルの足ではけっしてリディアに追いつけない、卑怯な事実を知っていたから。
二階の調合室に直行し、棚のなかに並んでいた咳止め、風邪、肺炎、心臓、師から教えられた薬のうち必要そうなものを片っ端から革のかばんに詰めこんだ。有事のためにイルザークが置いてあった木彫りの〈鳥〉も三つ掴む。ばたばたと一階に下りたリディアは、居間に立ち竦むアデルを一瞥した。
「わたし走っていくから! あとからオルガとついてきて!」
彼をこの家に縛りつけている理由がリディアの安全ならば、この体が外に飛び出してしまえばアデルは間違いなく追ってくる。
彼はこちらをぎろりと睨んだ。
リディアでさえひっと身を竦めてしまうほどの形相だった。
(アデルがとっても怒ってる!)
「リディアのあんぽんたん! すっとこどっこい! おまえは全然わかってない!」
「ひええ! あとで全部聞くからー!」
アデルが、あのアデルがリディアをさして「おまえ」だなんて。
恐らくこの短い人生のなかで最も彼が激怒した瞬間に立ち会ってしまったリディアは、続く罵倒を聞くのが怖くてとっとと飛び出した。
一方置いていかれたアデルは、人生ではじめて、怒りのあまり食卓を殴りつけた。
きょろきょろと大きな目でリディアとアデルのやりとりを観察していた火蜥蜴の背中の炎が燃え上がる。「……坊?」と恐る恐る話しかけるが、アデルは震える拳を見つめたまま動かない。
アデルは低く呻いた。「ああ……」手が折れたかと思うほどの痛み。掌に食い込む爪の感触。ようやく頭が冷えてきたが、腹の底は爆発しそうなくらい熱い。
「……ああ、解っていないのはぼくのほうだ!」
コルシュカは心底同情したような顔つきになり、取り残された少年にそっと声をかけた。
「惚れた弱みってやつだな」
アデルはじとりと暖炉を睨んだ。
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