第3話 泣いてる理由がわからない

「坊。……坊」


 囁き声に呼ばれたアデルはそっと目を開けた。

 銀色の月明かりがカーテンの隙間から差しこみ、室内に帯状の光の影を落としている。思い出したように呼吸を始めた肺の上下を感じながら首を動かすと、枕元のランタンに小さな火が灯り、コルシュカの顔の形を描いているのが目に入った。


「坊。起きろ……」

「……なに、どうしたの」

「お嬢が寝ちまったんだ。風邪ひいちまうよ」

「あぁ……」


 喉の奥から嘆き交じりの吐息を零すと、アデルは身を起こして寝台を下りる。かけていたブランケットを小脇に抱えて一階に下り、居間のドアを開けた。


 ソファの向きが昼間と違う。

 午后、アデルが本を読んで過ごした二人用の長いソファは、普段は掃き出し窓を向いている。それがコルシュカのねぐらである暖炉のほうを向いていた。

「坊~」と呼びつけてくるコルシュカの炎の灯かりへ近づくと、リディアが横になってくぅくぅと寝息を立てている。

 投げ出された細い腕のすべらかな白さが、不安になるほど美しい。

 その下に転がっていた毛糸玉と編みかけのジレを拾って、食卓の上に置いておいた。


 ジャンには死んでも言えないことだが、リディアは自室にきちんと寝台があるにも関わらず、毎夜アデルの布団に潜りこんでくる。

 この家に拾われた頃からそうだった。

 一人で眠ると、雪の下に沈みゆくあの日の夢を見るのだそうだ。


 けんかしてからはどうもイルザークの寝床に厄介になっていたようだが、討伐隊に出発して彼もいない。きっと一人で寝るのが嫌でコルシュカと話をしていたのだろう。

 コルシュカの朱い炎に照らされて、無造作に散らばった栗色が明るく燃え上がっている。

 ふっくらとした頬に僅かに残る涙の痕を指先で拭った。

 持ってきたブランケットを広げる。アデルでは彼女を二階まで運んでやることができない。膂力や脚の問題ももちろんあるし、浮遊魔法は上位の魔法使いしか使えないからだ。


「……リディアは本当なら、もとの世界でもちゃんと生きていけたはずなんだ」


 ぽつりと零したアデルの声に、コルシュカはぴくりと顔を上げた。


「ぼくたちが生まれた場所では黒髪が当たり前だった。リディアの明るい色の髪の毛も、朝露に濡れた葉っぱみたいな瞳も、外国の血が入っていないとおかしいってくらい珍しい色でね」

「……みんなが、イルザークや坊のような黒なのか?」

「うん、そう。だからこっちに来て、逆に黒髪はあまりいないのだと知って不思議な感じがしたよ。場所が違えばどうとでも変わるものなんだよね。……そんな程度のものなんだ。髪や、目や、肌の色なんてものは」


 生まれた土地で奇異の目を向けられていたリディアがこの世界に馴染み、もとの場所では当たり前だったアデルの黒髪が今度は忌避されがちになった。

 そのことに受けた衝撃も、そこはかとなく感じた絶望も、まだはっきりと覚えている。


「だからきっと、リディアもそうだったはずだ。向こうでは確かに目立つ色をしていたけど、そんなもの翳むくらいリディアは……お日さまみたいな女の子だから」


 人当たりがよくて、正義感が強くて、しゃんとしていて、朗らかで優しい。

 誰だっていつか気づく。リディアは素敵な女性になる。どんな大人にもなれたはずだった。


 そのリディアを、あの六年前の雪の日、アデルが唆してしまった。

 誰もぼくを知らないところへ行きたいなんて情けなく泣いたせいで、少女は少年を連れて世界から逃げださなければならなかった。そのあげく、世界を超えた罪悪感を一身に引き受けさせてしまった。


「ぼくは彼女の枷にしかならないなぁ」


 アデルの右脚を見ていつも痛みを堪えるような顔をする。罪悪感は彼女を縛りつける。

 なにになれるだろう、と零した彼女の頼りない背中。


 本当はどんな素敵な大人にもなれる可能性を秘めていたリディアを、アデルの存在がこの世界に繋ぎ止めてしまう。


「この世界に来るよりも、ずっと、ずっと前からそうだった……」


 床に座りこんだアデルはソファに身を寄せて、リディアの顔にかかる栗毛をそっと払う。

 幸せになるべき女の子。

 もとの世界に戻れば、魔法も魔術も使えないことに悩まなくていい、アデルの歩き方を見て胸を痛めなくていい、罪悪感も忘れていい。魔王軍の残党と思しき魔法使いが再び暗躍しはじめたりするような、物騒なこの世界で生き抜くよりも、余程そちらのほうが。

 だからあんなひどいことを言えた。

 リディアがいなくても平気なんて嘘をつけた。


「家族が生きているから……リディアはまだいくらでもやり直せる……」


 こてん、とリディアの顔の近くにうつ伏せたアデルを、コルシュカはじっと見つめる。


「人間たちとおれたちの『家族』の在り方はちがうから、おれには坊やお嬢がなぜ泣いているのかわかんねぇや」

「……ふふ、そっか」


 リディアの体が冷えないように気を払いつつ、アデルもブランケットを引っ張って自分の肩にかけた。

 一人で眠るのが怖いのだと泣く少女を、こんなところに一人にするつもりはなかった。


「だがアデル」


 暖炉のなかに灯るコルシュカの炎は柔らかい色をしている。

 こんなにも優しい炎を、アデルは知らない。


「たとえ目や髪や肌の色が違っても、おなじ姿かたちをしていないとしても、おはようやおやすみを言えて、恵みや幸いを願いあえる相手ならば、それは家族だとおれは思う……」


 只人とかけ離れた時のなかを生きる魔法使い、炎の精霊〈火蜥蜴〉、森を統べるヌシ、魔力を持つ異世界の人びと。

 この世界でアデルとリディアのため心を砕いてくれた大切な人たち。

 彼らが家族でなければ、一体なにを『家族』とすればいいのか。


「そうだね……」アデルの肩が震えた。「……そのとおりだ、コルシュカ」


 すん、とすすり泣くような声もしたけれど、コルシュカは聞かなかった振りをした。

 おやすみ、と家族のあいさつをして、そっと炎を消した。

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