第2話 わたしはなんにもできない
「わ、シュリカさん。こんにちは。……どこか出掛けるの?」
前半はシュリカに、後半はイルザークに向けた言葉だ。
「自称・《黒き魔法使い》の討伐に出る」
「ああ……、わかりました。行ってらっしゃい」
端的な回答にはじめ目を瞠ったアデルだったが、すぐになにもかも了解したというような顔になって、淡泊に会釈する。
それが余計に自分の子どもじみた態度を際立たせているようで、リディアは恥ずかしさのあまり両手で顔を覆った。
「暫らく鍵を閉めて家の外に出るな。畑に出るときも結界を張れ。なにかあればオルガを呼ぶか〈鳥〉を飛ばせ」
「はい。二人とも気をつけて」
弟子たちは家の外で、イルザークとシュリカの出発を見送った。
少し離れたところに立ったシュリカは杖を取りだす。対するイルザークは素手のまま無造作に魔力を操作した。
緩やかな下りの傾斜を、水の珠が音もなく転がっていくように──、イルザークとシュリカの肉体が輪郭を崩して、空気中の魔素へと融けていく。
瞬く間に二人のからだは夥しい数の黒蝶の群れとなって、雲海のごとき波濤をさざめかせながら飛び去っていった。
物騒な世間とは裏腹に晴れ渡る天海を、南へ。
放っておいたらいつまでも見送っていそうなリディアの手を、アデルは優しく引っ張った。
「入ろう。……大丈夫だよ」
アデルが穏やかに紡ぐ言葉は、強張っていたリディアの表情を解きほぐす。彼がそう言うのなら、イルザークが約束してくれてなお仄かに不安の灯る心も、大丈夫なのだと思えた。
(けんかちゅう、なのになぁ……)
改めて痛感せずにはいられなかった。
アデルがいないとだめなのはリディアのほうだ。
その午后は、なんとなく居間に揃って過ごした。
リディアは暖炉の前で編み物をしながら、時折不安に駆られて窓のそばへ寄り、ここからではなにも見えないとわかっていながら南の天海を仰ぐ。
アデルはその姿を眺めながら、ソファに腰かけて魔術の研究書を捲っていた。
「お嬢、今度はなに編んでんだ?」
「春用のジレ。去年、メイベルさんに頼まれてたんだ」
暖炉のなかのコルシュカにも見えるように、ぴらっと広げてみせる。
冬用のものより軽い毛糸で編んだ、薄桃色のジレだ。メイベルの要望で所どころ橙の糸を入れてアクセントをつけ、全体的には葉の模様が浮き出るようにしている。昨日ココのセーターが完成したあとに取りかかったものだった。
まじまじとリディアの作品を眺めたコルシュカはぱちぱちと瞬きをする。
「相変わらず器用だなぁ。ほんのちょっと前まで、マフラーしか編めなかったのにな」
「ふふ。なにせ師匠が凄腕だからね」
ココから譲り受けた棒針をまた単調に動かしはじめて、真っ直ぐに同じ目しか編めなかった頃のことを思い出した。
魔法はもともと使えず、魔術もどうやらセンスがないらしい。そうわかったとき、幼いながらに厳しい現実を思い知った。容姿のためにひどい仕打ちを受けて、わざわざ逃げてきた世界でさえ、リディアに特別なものはなにも与えなかった。
やや落ち込んでいた少女にココが教えたのが編み物だったのだ。
棒針をきちんと決まった数、動かしていれば確実に成果が見える。魔術で失敗してばかりの日々に、ただ指先の作業だけでリディアにもできた編み物は最適だったのだ。
失敗したら毛糸をほどいてやり直すことができるのもよかった。
イルザークやアデルが、できたマフラーや帽子を身につけてくれるのも嬉しかった。
徐々にココの口からリディアの腕前が広がり、いまではオクのみんなが、なにか必要になればお願いしにくるようになった。なんにもできない自分でも誰かのためになるのだと、そう感じさせてくれた。
「……ねえ、アデル」
暖炉のほうに向いたままつぶやく。
返事はなかったが、彼の視線がこちらに向いたのが気配でわかった。
「ジャンは《バルバディア》に行くんだよね」
「そうだね。魔法騎士になるんだって言ってたよ」
「アデルはやっぱり先生のあとを継いで魔法使いになるのかな」
「魔法使いとして教会に認められるかどうかは微妙だけど、魔法薬を作って生計を立てていけたらいいよね」
「わたしは」リディアの手が止まった。「なにになれるのかな……」
アデルは口を閉ざした。
その沈黙に、やはり彼はまだリディアに戻ってほしいと考えているのだと、正しく悟った。
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