第9話 憐れな愛し仔
自分の寝台に入るのはいつぶりだろう。
落ち着かない寝返りを何度も打ちながら、リディアはカーテンのすき間から零れ落ちる光をじっと見つめていた。
天界におわす月の女神の姉妹のほほ笑みによって地上に与えられる、夜の道しるべ。
風も雲もない夜だ。しろがねの光の筋が照らす床の木目の陰翳をひとつ、ふたつ、みっつと数えてみるけれど、アデルの「平気だよ」という声は頭蓋の裏にぴとりと貼りついたまま剥がれやしない。
「…………だめだっ!」
がば、と元気よく身を起こしたリディアは羽毛の枕を抱きかかえ、階段を下りてすぐのドアを手の甲で三度叩いた。
「なんだ」とイルザークの平坦な声が返ってくる。
「せんせい……一緒に寝てもいい?」
ごちゃごちゃと研究書や紙の束が溢れかえる部屋のなかで、卓子についていたイルザークが振り返る。
師が床につくにはまだ早いと解ってはいたけれど、彼はふっと息を吐いて立ち上がった。うんともすんとも返事はなかったものの拒絶の意思は見当たらなかったため、足元に散らばる資料のたぐいを踏まないようにおずおずと近寄っていく。
イルザークはぴっと人差し指で寝台の壁側を指した。
寝台に膝をついたリディアは指示通り、壁にひっつくようにして横たわる。寡黙の師はその隣にほっそりとした躰を収めると、片腕を枕にして、ちいさく縮こまっている弟子を見下ろした。
黒亀石の静謐な双眸に見つめられているうちに、不安に潰れそうだった心が落ち着いていく。
「先生」
「ああ」
どうしたらいいのかな、と訊ねることは簡単だったけれど、リディアは我慢した。
訊いたところでイルザークは答えを与えてくれない。
考え、択ぶのはいつだってリディアだ。
「先生……」
ぽろっと眦から零れた涙が枕に吸いこまれていく。
アデルがあんなにも大きな声で感情を露わにするのは初めてだった。アデルに怒鳴られた、その衝撃がいまになってじわじわと頭を締めつける。
「アデルを怒らせちゃった、先生」
「……怒ってはいまい。不器用ゆえにどう言えばいいのか解らなかっただけだ」
「でも、あんな乱暴な言葉を使うアデル初めてだったの」
「あんなものだろう。子どもなのだから」
イルザークの大きな手が、黒く染まった指先が、リディアの乱れた髪を撫でつけた。
どこか恐れるような手つきで、ほつれた栗色の毛を一筋ずつほどいていく。ひんやりと冷たい指先の感触に、リディアは彼に拾われたときのことを思い出した。
まるで柔らかい綿の形を壊すまいとするように、躊躇いがちに、ありありと逡巡の感じられる手つきで、ふたりの頭を撫でてくれた。
六年経ったいま、イルザークが弟子に触れる手は、以前よりは遠慮がない。
ちょっとやそっとではこどもたちが壊れてしまわないことを学んだのだ。
「先生、わたし、ここにいたいよ」
望みは、リディアの意識より先に、唇からまろび出た。
(ああ、わたし、ここにいたいんだ)
声に出したことで自分の想いがかたちを得る。
「そうか」
「本当だよ。本当に、ここにいたいんだよ……」
「ああ、そうか」
今更、元の世界に戻りたいとは思わない。
だけど、魔法も魔術も使えないリディアが生きていくには、この世界には魔法が深く根付きすぎている。イルザークの弟子を名乗る資格などない。アデルの未来を鎖してまで彼のそばに居続けることも辛い。
それなら、魔法も魔術も使えなくていい世界に戻ってもいいのではないか。
戻ってこいと言ってくれる兄がいるのだから。
ここにいたい、戻りたくはない。だけど戻ったほうがいいのかもしれない。
なによりも、アデルはそれを望んでいる。
──頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。
しくしくと泣きはじめたリディアに対する慰めの言葉もなく、イルザークはただ、ちいさな頭を繰り返し撫でた。
「…………」
顔を上げたイルザークは、枕元を照らしていたランプの火を瞬きひとつで消す。
リディアはいつまでも泣いていた。
細く頼りない肩を震わせながら、声をおさえて、静かに泣いた。
ふたつの月が上りきる頃、師の腕のなかで静かに寝息を立てはじめた子どもに、イルザークは小さく息を吐く。
この子がもともとこの世界に生まれていれば、母親に首を絞められることも、境界を超えるほど世界を憎むことも、生きる世界を選択するなどという苦難もなく、どんなにか幸せになれたことだろう。
そう思うと、心底このちいさな生き物が憐れで、それでいて愛しかった。
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