第8話 なんにも解ってないふたり
けっして疎まれているわけではない。
冬の湖のようにしんとしたイルザークの細面には、先程彼が発した言葉以外に、なんの感情も意味も浮かんではいなかった。彼は本当に、二人でゆっくり考えるようにと、ただそれだけを望んでいる。
ソファの背凭れに隠れて見えない片割れのほうに視線をやったリディアはちいさくうなずいた。
するとアデルがおもむろに身を起こし、こちらを振り返る。
「戻っていいよ。リディア」
その一言がどういう意味を持つのか、少女は一瞬、理解できなかった。
少しの逡巡ののち、アデルの言葉に他意が全く含まれていないことをかみ砕くと、卓子に手をついて思わず立ち上がる。
ほんの少し離れただけの場所にいるその少年が、実はアデルの皮を被った別のなにかのように思えてならなかった。
リディアの知っているアデルはそんなこと言わない。そんなことを言うような人なら、もとより日本から逃げ出してなどいない。
だがいくら見つめてもアデルはアデル以外の何かに変身したりしなかったし、言葉を撤回しようとしなかったし、イルザークも腕組みをしたまま押し黙っていた。
「……なんでそんなこと言うの……」
辛うじて絞り出した声に、アデルは淡々と返す。
「リディアの家族が生きていて、リディアが戻ってくるのを待っている。あのときぼくたちはまだ子どもで、二人じゃ何もできなくてただ逃げることしかできなかったけど、いまはそうじゃない。リディアならやっていけるよ」
「でもじゃあ、わたしだけが戻って、アデルはこちらに残るということ?」
「ぼくの父さんと母さんは生きていないし帰る家もない」
つまり、それ以外に一体なにがあるのか、ということだ。
頭が真っ白になった。
裏切られたような気さえしていた。
「アデルはそれでいいの」
震える手が血の気をなくすほど、強く、強く握りしめる。短く切り揃えている爪が掌に食い込んだけれど、痛みは冷静さを呼び戻してくれない。
「わたしと別々になっても平気なの」
それは卑怯な質問だった。
リディアも、アデルももう九歳の子どもではない。
返ってくる応えはきっと六年前と変わらないと、わかっていても訊かずにはいられなかった。
「平気だよ」
平気じゃないのは彼女のほうだった。
本当は、彼女のほうこそが──。
「ぼくはリディアがいなくても平気」
「……アデル」イルザークが眉を顰めて諫める。
「リディアはもしかしたらぼくの右脚のことを気にかけてくれているのかもしれないけど、別に大丈夫だから。日常で歩くだけなら支障ないんだし、いざとなったらオルガたちが助けてくれるし。いろんなものが視えているこの目もこちらでなら有利なことのほうが多いから、生きやすいよ」
普段寡黙なほうのアデルが捲し立てる言葉の半分も理解できなかった。
この少年は──このひとは──いったい、なにをいっているのだろう。
何も解っていない。アデルはなんにも解っていない。
日本に放りだされた自分がどれほど恐ろしかったか、兄になんと言われてどう思ったか、どう言い返してこちらに帰ってきたのか、リディアが本当はどうしたいのか、なんにも聞いちゃいないのだ。
アデルはリディアに日本に帰ってほしい。
一緒にいなくてももう平気。
喉の奥に、ずっと心のなかに隠しておきたかった痛みを伴う激情が込み上げてきた。大きく息を吸いこんでわけもなく怒鳴り散らしたいのに肝心の内容が頭に浮かばない。リディアの唇が戦慄く様子をアデルはじっと見ていたけれど、それ以上のことを語ろうとはしなかった。
「……アデルはもうわたしのこと要らないんだ」
「そんなこと言ってないだろ」
「言ったよ。もう要らないから日本に帰ればって、そういうことでしょ?」
「じゃあリディアがいないと平気じゃないって言えばいいのか? そしたら後先考えずにこっちに残るだろ!」
「後先考えずにって、なに、その言い方! わたしは──」
「だってそうだろ!」
リディアの声を掻き消すほどのアデルの反論につい怯んだ。
彼がこんなにも大きな声を出すのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。
「ぼくがあのとき逃げたいなんて言ったからリディアはぼくをつれて逃げたんだ。まともに歩けなくなったぼくの傍から離れようとしなかったのはリディアだ。もういい加減きみの枷になるのはうんざりなんだよ!!」
悲鳴にも似た怒声に大気が静まり返る。
(かせ?)
なにも考えられなくなった頭の端っこに、そのふた文字が揺れる。
アデルの黒縁眼鏡の奥で揺れる双眸は痛々しい色を孕んでいた。
辛い態度をとられたのはリディアのほうだったのに、要らないから日本に帰れと言われて泣きたいのはリディアだったのに、どうしてアデルがそんなにも痛そうな顔をしているのだろう。
「ふたりとも──」
イルザークが吐息とともに顔を上げて、リディアを、アデルを順に見つめる。
「すこし黙りなさい」
そう言われなくとも、もう反駁する言葉も持たなかったけれど、ふたりは悄然と口を閉ざして視線を逸らした。
「部屋に戻って休め」
動くことができなかった。
指先ひとつでも震えたら、そこから全てが決壊するような気がして。
「…………。……はい、先生」
長い沈黙ののち、抑揚のない声で応えたリディアは居間を出た。
二階へつづく廊下と階段の壁に設えたランプにぽぽぽっと炎が灯る。一つずつ、リディアの行く先を照らすように、順番に。
そのうちのひとつにコルシュカの心配そうな姿が浮かんだが、涙でぼやけて、よく見えなかった。
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