第7話 「帰ってきて」
「恭子……」
兄と話をした店を出て、最初に自分が放り出された小路に戻ろうとしていた途中、確かにアデルの声を聴いた。
「……アデル。アデルなの?」
慌てて走りだして、見覚えのある一軒家のそばの路地に飛び込む。
すると、石塀の途切れる曲がり角の向こうから、白い手が生えていた。
「えっ……なにあれ」
さすがのリディアも石から人の手が生えている場面に遭遇したことはない。若干警戒していると、その手は石塀のなかに沈みこむように消えてしまった。
しまった、せっかくアデルの声が聴こえたのに、そしてあの尋常ならざる現象は間違いなくあちらの世界の魔法によるものであるのに、帰る機会を逃してしまったかもしれない。
(ひええどうしよう! いまのが最後のチャンスだったらどうしよう)
一人おろおろするリディアの目の前で、再び灰色の塀のなかから、白い手が姿を現した。
ほっそりとしていて、だけど意外と男の子らしくて、魔法薬の精製のせいですこし指先が荒れている、紛れもないアデルの手だ。先程は遠目で見て少々ぎょっとしたが、この距離で間違えるわけがない。
「……恭子」
「やっぱりアデルだ! アデルの手が石から生えてる!」
するとまた手が消えてしまった。
石のなかに吸いこまれる直前、一瞬アデルの動きに合わせて揺れたように見えた。肩を竦めたとか、笑ったとか、そういう感じだ。
とにもかくにもリディアはその手を見て、そしてアデルの声を聴いてすっかり安心してしまい、胸をおさえて大きく息を吐きだした。
ようやく呼吸を思い出した。そんな気分だ。
三たび生えてきた手に、ちょっと笑いすら零れる。
「ちょっと恭子」
「アデル! ああなんだびっくりした、急に手が石のなかに消えちゃったから焦ったよ、ねえこれどうなってるの? 魔法?」
「あーもーいいからぼくの手を追いかけて帰ってきて」
……「帰ってきて」。
帰れるのだ。このアデルの手があれば、あの優しい世界に帰ることができる。なにがなんだかさっぱり解らないが、この手があれば怖いものなどなにもない。
「わかった!」
全幅の信頼を寄せてその華奢な手を握りしめた瞬間、リディアのからだは石塀のなかにとぷんと沈んで消えた。
ぱち、と瞼を押し上げると、目の前には情けない顔をしたアデルがいた。
「アデル、よかったぁ戻ってこれた、あのね、つくしを採ろうと思ってちょっと茂みに入っただけなのよ、そしたら気づいたら日本にいて……わ」
けっしてわざと日本に行ったわけじゃないということを解ってほしくて、つい早口で捲し立ててしまったリディアの言葉を遮るように、アデルが両腕を伸ばして抱きしめてくる。
息が止まりそうなくらいの力強さに思わず声が洩れかけたが、リディアの体を掻き抱くその腕が僅かに震えているのを感じてそっと口を閉ざした。
突然日本に放りだされたリディアももちろん困ったけれど、アデルのほうは気が気ではなかったのだろう。華奢な片割れの背中に手を回して、ぽんぽんと撫でた。
しばらくそうしていて、ようやく気が済んだらしいアデルがそっと抱擁を解く。
「ご心配おかけしました……」
ごち、と額を重ね合わせて笑うと、アデルは細く息を吐きながらうなずいた。
振り返ったうしろにはイルザークとオルガが並んで座っていたので、そちらにも抱きついておく。
師は特に反応を見せることなく頭を撫でてくれて、友は「ぶじでよかった」と頬を舐めてくれた。
その後、オルガの背中に乗せてもらって家に帰った一行は、今日買ってきたバゲットと玉葱のスープで夕飯を済ませた。リディアを捜してこちらに連れ戻したことで、アデルがかなり憔悴していたのだ。
リディアはイルザークと食卓に向かい合って、ココの家からの帰り道に何が起きたのか話すことになった。
アデルはソファにぐったりと横たわっている。
「さっきも少し話したけど、つくしを摘んで帰ろうと思ってちょっと茂みに入ったら、もう日本にいたの。住んでいた町。混乱して、アデルの住んでいた家を見に行って、そのあと……兄に、会って」
「お兄さん……? リディア、お兄さんなんていたっけ」
ソファのほうからそんな声が飛んできた。
「いたよ。わたしもほとんど憶えていないけど、お父さんと一緒に家を出たの」
「ああ……、うーん……?」
唸り声のような相槌を打つアデルの記憶には、兄は残っていないらしい。
リディアでさえ「そういえばいたな」程度なのだから仕方がないだろう。
兄との話の内容は置いておいて続きを話そうとしたリディアを先回りして、イルザークは「それで」とつぶやいた。
「戻ってこいといわれたのか」
ぱちくり瞬いて呆気に取られたリディアに、彼は呆れたような顔になる。
「先生なんで……」
「余程の阿呆でないかぎり、長年行方不明になっていた身内が無事でいるとわかったら自分たちのもとに戻ってこいと言うに決まっている」
「そ、そういうもの……?」
血のつながった身内との縁がとことん薄いリディアにはいまいち想像ができない。
ただ、例えばアデルの両親が生きていれば戻ってくるように言っただろうし、もしジャンが行方不明になっていたとすれば彼の家族も同じようにしただろう、そんな気はした。
それを自分に置き換えて考えることのできない少女を見て、師はまつげを震わせた。
「〈穴〉は九日間、あの場所に開いたままだ」
黒亀石の瞳を伏せ、腕組みをする。
兄に戻ってこいといわれたリディアがどう答えたのか、またどうしたいのか、訊ねようとしないその態度がすこし怖かった。
「オクの民や魔物たちが誤って落ちないように陣は張ってきたが、一度触れたおまえたちには効くまい。二人でゆっくり考えろ」
「考えろって……先生」
アデルは返事をしない。
ここにきてリディアは、自分はこちらの世界に帰ることが当たり前だと思っていたけれど、イルザークもアデルもそうではないと考えていたことを知った。
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