第四章 宵待鳥の卵とサウダージ
第1話 生きていくための手順
まだリディアとアデルが〈魔法〉という存在に懐疑的だった頃、子育てに行き詰まったイルザークはふたりを連れて町に下りた。
もといた場所を逃げだした彼らは大人というものへの警戒心が殊更強く、それは命の恩人であるイルザークに対しても同様だった。自分が対人関係を不得手とすることを自覚していた彼は、大人しく他者の手を借りることにしたのだ。
それがココだった。
早くに子どもと夫を亡くし、オクの町の片隅でひっそりと暮らしていた彼女は、イルザークが突然連れてきたこどもたちを歓迎した。
「まあ、かわいらしい。いつの間に産んだの、先生」
「……産んでいない」
第一声はそんな冗談だった。
それからふたりは度々ココのもとに預けられた。彼女は日常的に魔法を使えるほどの魔力を持たず、日々の炊事や洗濯や掃除など全て自らの手でこなしていた。
炊飯器、ガスコンロ、電子レンジ、オーブントースター、清潔な水の出る水道、洗濯機、掃除機、自動でお湯を入れてくれるお風呂、そんな便利な道具はこの世界にはない。魔法を使って水や火や風を司る精霊の力を借りるか、人力で水を汲み火を熾し天気のままに暮らすしかないのだ。
ふたりはそうやって、この世界で生きていくための手順をココから教わった。
いうまでもないがイルザークは生活能力皆無のダメ魔法使いだから当てにならない。
イルザークが魔法の先生なら、ココは全てにおいての師匠だ。
だからふたりはココをおばぁちゃんと呼ぶ。彼女も、ふたりのことを本当の子や孫のように受け入れてくれた。
「……おばぁちゃーん」
ベルトリカの森を出たリディアは、小さな白い家のドアをノックする。
今日のお土産は、昨晩のうちに焼いた宵待鳥の卵のシフォンケーキ、それから昨日まる一日部屋に籠もって編んだ春用のセーターだ。
一歩離れて少し待つと、「はぁい」とゆっくりドアが開く。
「あら、こんにちは、リディア」
「おばぁちゃん……匿って」
「うふ、どうしたの、今度は誰になにを言われたの?」
そういえばつい一昨日、ジャンにアデルを莫迦にされたのが悔しくてつい弱音を吐いてしまったのだった。ちょっと居心地悪く目を逸らしたリディアに、ココは悪戯な笑みを洩らして手招きをする。
食卓でココの淹れてくれたお茶とシフォンケーキを広げて、リディアはアデルとけんかになった経緯をざっくり説明した。
ふたりが
ココはお茶を飲み、シフォンケーキを一口ずつ運びながら、首を傾げる。
「リディアのご家族はご存命だったのね」
「うん……まあ」
「よかったわね」
(よかった……のかなぁ?)
もとより死んでいたわけではない。リディアの存在を疎んだ家族を、こっちのほうから捨ててやっただけの話だ。
そんなリディアの心のうちを見透かしたようにココが微笑する。
「リディアは、ご家族のことがあんまり好きではなかったのね」
「うぅん……もう好きとか嫌いとかじゃなくて……。向こうだって、わたしのことなんて生まれなきゃよかったと思っているだろうし」
うつむいた視界に栗色の長髪が揺れた。
母にも父にも似ていない、家系的に生まれるはずがない、色素の薄い髪、つくりもののような瞳。
アデルだけがきれいだと言ってくれた。
イルザークが「いい色だ」と不器用な手つきで頭を撫でてくれて初めて、伸ばしてみようかなと思えた。
すこしのあいだ、言葉を択ぶように目を伏せていたココが、「あのね、リディア」とカップを置く。
「世のなかには確かに残念ながら、希望や愛情ばかりを受けて産まれるわけにはいかなかった赤ちゃんがいるものよ。悲しいことに、いつだって、世界のどこかには」
「…………」
「けれど、生まれなければよかった命などありません」
「……そう思う?」
「あら、ココおばぁちゃんの言うことが信じられない?」
お茶目にウィンクしたココについ肩の力が抜けた。
「天海のくじらはあらゆる生を祝福するの。歓迎されない命などこの世にひとつもないのよ。だってほら、リディアに出会えてこんなにも幸せなおばぁちゃんがここに一人いるんですから」
まっすぐに向けられる確かな愛情に返す言葉を持たない。
いつだって自分の身を守ることに必死だった。自分だけが自分を守れた。同級生に絡まれるアデルを庇うことで、いい子でいようとした。それは巡り巡って自分を守るためのすべでもあった。
そうまでしてもあの世界はリディアを救いはしなかった。
血のつながった母に、頸を絞められたことがある。
──あんたのせいで。
──あんたがそんな髪の色だから。おかしな目の色をしているから。おかあさんはなんにも悪くないのに。
──あんたのこと嫌いになりたくないのに。
泣きながら、呪詛を吐きながら、どこにも存在しないなにかを呪いながら、リディアの細頸を両手で絞めようとした母はすぐ我に返って後ずさったけれど、咳き込む娘を抱きしめることはついぞなかった。それ以来、帰宅する回数も減った。もう顔も声も思い出せない。
親すら近寄らなかったこんな少女を大切にしてくれた人がいる、この世界を、離れることなどできそうもない。
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