第2話 弟子とフクロウ

 とはいえ、この世界の生まれでないふたりは、魔素を蓄積するという体の仕組みをそもそも持たない。


 こちらにもそういう者が生まれることはあるという。また、魔法らしい魔法を使えるほど魔力を宿せない者もいるそうだ。そういう人々は、自身の魔力のかわりに、精霊や神々の好む鉱物などを触媒にして術を使う。それを魔法と区別して〈魔術〉と称した。

 イルザークはその方法を弟子たちに教えたのだが、それでも覆せない不向きというものもあるらしい。


「おかしいなぁ、アデルは十歳のときにもう肩凝りの薬を精製できたのに」

「しかたないよ。先生でさえ匙を投げるほどの絶望的なセンスのなさだもんね、リディアは」

「ああ、そんな本当のことをはっきりと……」


 それでも懲りずに劇物を精製してしまうのは、魔法や魔術に対する捨てきれない憧憬や、センスがないと貶しつつも練習するなとはけっして言わないイルザークの甘さ、そして。

 そして──


 その続きを胸のうちに仕舞いこんだリディアは、ぱっと顔を上げてアデルを振り返った。


「……さてっ、片づけしよ! アデル手伝って」


 アデルはしゃがみこみ、リディアが起こした本の雪崩に手を伸ばす。


「今日の夕飯、羊肉の赤桃煮ね」

「やったー! それならあとで赤桃の収穫に行かなくちゃね」


 師イルザークの仕事場である調合室はもともと雑然としている。

 壁にずらりと並ぶ戸棚のなかには、薬品や薬草、鉱物、虫の死骸や魔物の骨など百種類はくだらない数の素材が収められている。これは師が管理するうち、頻繁に使用する種類を厳選してこの部屋に持ってきたものだ。それから調合済みの薬、調合は済んでいるけれども数日寝かせる必要のある類のものも、わりと無造作に並んでいる。

 リディアたちが日頃から手を入れているため、足の踏み場もないということにはならないが、気づけば本や羊皮紙の束や研究書や筆記具が転がっており、毎日掃除していてもいまいち片づかない。


 調合済みの薬などは下手に触るとぼこぼこにされるため、二人はひとまず本や羊皮紙をもとの場所へ戻す作業をはじめた。調合室内の書架、あるいはアデルの私室を挟んだ向こうにある書斎をくるくると往復する。

 いつまで経っても怪しい水泡をぽこぽこと生み続けていた鍋の中身は、昔イルザークが作ってくれた「リディアの劇物処理箱」へ丸ごと捨てた。

 研究や実験に使う器材のなかでも、きれいにして大丈夫そうなものを拭いたり、テーブルの上に雑然と放置された原料を棚のなかに戻したり、床を掃いたり。


「よう、リディアにアデル」


 ふと、開け放っていた窓際から声をかけられた。

 豊かな翼を羽ばたかせながら、大きなフクロウが窓の桟に降りてくる。柔らかい落葉のような色の毛並みと、朝焼けの金色の双眸。鋭い爪を窓枠に引っ掛け、フクロウは滑らかに着地した。


「シュリカさん! こんにちは」

「今日も掃除か。よく働く弟子だなぁ」

「う……うん、掃除。いやぁ今日はいい天気で掃除日和ダナァ」


 流暢に人語を喋るこのフクロウは名をシュリカといって、イルザークのふるい友人で、そして彼もまた魔法使いだ。移動に楽だといってよくフクロウ姿でこの家を訪れて、大抵はその姿のまま帰っていく。

 リディアたちがこの家で高熱に魘されていた頃からのつきあいである。


「イルはいるか? 頼んでいた薬を取りに来たんだが」

「今日は町に往診に出てるよ。そろそろ帰ってくる頃だと思う」

「そうか。じゃ、帰ってくるまで待たせてもらうな。ちょっくら話もあることだし」


 人間めいた仕草で目を細めたフクロウがばさりと両翼を広げた。

 只人の子らの目の前で、シュリカの体内に通う魔力が彼の肉体の輪郭を分解し、空気中の魔素を通して再構築していく。


 変化は翼の先端から始まった。落葉色の柔らかな毛並みの輪郭が蕩けて、一片ずつの羽になり、羽の毛先から同色の蝶へと変化していく。

 波のようなうねりを帯びた蝶の群れがやがて窓から飛び去ってゆくと、そこにはローブ姿の顎鬚の男が立っていた。

 毛並みと同じ穏やかな茶色の短髪に、こちらはフクロウ姿とは違って葡萄酒色の瞳をしている。師イルザークは静謐な夜のごとき黒ずくめだが、それとは対照的に、柔和な陽の気を放つ人間姿のシュリカだ。


 緩やかな下りの傾斜を水の珠が転がっていくような、すべらかな魔法の光景に、リディアはほうと溜め息をついて小首を傾げる。


「……何度見ても不思議だねぇ」

「うん。高位の魔法は本当に意味がわからないね」

「まあ、魔法ってそういうものなんだろうけど……」


 生まれたときから魔法など使えなかった只人の子らの感想に、生まれつき魔力を宿し魔法を自在に操る魔法使いが苦笑した。


「俺には魔法が使えない感覚のほうがわからんがな」

「うーん、世の中ままならない」

「ま、俺は俺、リディアはリディア、アデルはアデルでイルはイルってことよ」


 からっと笑ったシュリカに、二人も口元をほころばせて肩を竦めた。


 こちらの人たちにとっては手足に等しい魔力を持たないリディアたちのことを、彼らは「只人」と呼ぶ。

 只人に対する目立った差別はないものの、魔力のない人びとは進学や就職の選択肢が狭まることは事実だ。それでもリディアがのびのびとぽんこつ弟子生活を謳歌できているのは、このシュリカや、師イルザークが何事にも鷹揚なおかげである。


 そのとき、調合室のすぐ隣に聳える大樹に設置された鈴が、カランカラン、と乾いた音を立てた。

 イルザークが森の小径にしつらえた結界を超えて、誰かがこの家に近づいてきているのだ。

 太陽の向きから見ても師が帰宅する頃である。窓から身を乗り出すと、青々と茂る木々の下を通って、黒い影がゆっくりと歩いてきているのが見えた。


「先生! おかえりなさい!」


 弟子の高く澄んだ声が届いたか、夜の闇から生まれ落ちたような姿かたちをした師が、ゆったりとした仕草で顔を上げる。応えはなかったがいつものことだ。

 リディアは窓を閉めて、いつの間にかアデルの掃除を手伝ってくれていたシュリカを振り返った。


「お茶淹れるね! 今日のおやつはベリータルトでーす」

「ついでに晩ご飯も食べていったら?」

「おっ、それならお言葉に甘えて久しぶりにご馳走になるかな!」


 炊事は基本的にアデルの担当だ。そして彼の料理は、基本的に食事など摂らずとも生きていける域に達したせいで絶食が当たり前だったイルザークを、進んで食卓に着かせることができるほどの絶品である。


「いやぁ、至れり尽くせりで悪いねぇ」


 ちっとも悪いと思っていなさそうなシュリカが、目を細めてにこにこしながらリディアたちの頭を撫で回した。

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