第一章 ベリータルトと魔法使い
第1話 リディアとアデル
ぼん、と鍋が爆発して紫色の煙がもくもく立ち昇る。
失敗をこのうえなく具現化したような煙を顔面に受けて、反射的にけふけふと咳きこみながら、リディアは慌てて窓際へ駆け寄った。
その拍子に
中央あたりにごちゃっと置いてあった調剤や機器類は運よく無事だが、どささささー、と慈悲もなく崩れ去った本や研究書は、無残な姿を床の上に晒している。
「やってしまった……」
二つの意味で。
ひとまず窓を開け、うちわで扇いで煙を外に逃がしていると、部屋の入口から一人の少年が顔を出した。
「……いまの、なんの音」
リディアの片割れ、ともにこの家に拾われた少年のアデルである。
室内を漂う紫色の煙の残滓に視線をやって、まあ大体把握した、というような表情になりつつ、僅かに右脚を引きながら鍋の中身を覗きこんだ。大体把握されたようだがリディアは正直に白状する。
「肩凝りの薬……」
「また失敗したの。肩凝りの薬って初歩の初歩じゃないか。どうやったらこんな健康に悪そうな煙が出るわけ、誰か殺したいひとでもいるの?」
「ああっ、そこまで言わなくても!」
声も顔も仕草も、盛大な呆れを隠さず辛辣に罵ってきたアデルは、分厚い黒縁眼鏡の奥で怜悧にひかる双眸をぎゅっと歪めた。
「毎度のことだけど、なにがどうすれば、こんなことになるんだか」
「それはわたしが訊きたい。どうしてこんなことになるのかな?」
「ぼくに訊かないで」
アデルがうんざりと溜め息をつく。
六年前の雪の日、もといた世界から逃げてきたこどもたちはローブの男の手をとった。
魔法使いを自称する彼の治療によって、出血が止まらず危ないところだった少年は一命を取り留め、凍傷間近だったこどもたちの体は丁寧に温められた。その後仲良く高熱に唸ったふたりのことを、彼は寝る間も惜しんで看病してくれていたらしい。──らしい、というのは、昏倒していた当人らにはあまり記憶がないからだ。
起き上がって粥を口にできるようになり、部屋のなかを歩いてもふらつかなくなった頃には、世界は雪融けの季節を迎えていた。
そのまま彼、名をイルザークといった男のもとで厄介になっているふたりは、いまや立派な──立派というのは健やかに成長したという意味であって、けっして脳みその出来に由来するものではない──彼の弟子となっている。
弟子となっている、のだが。
「やっぱりわたしに魔法は無理だな」
「魔法以前の問題では……」
師の教えの通りに作ったはずがなぜか爆発した劇物から、リディアはそっと目を背けた。
換気のために開け放った窓の外から、春の風というにはまだ早い、冷えた空気が吹きこんでくる。
ふたり揃って外出を許可された冬のおわり、はじめて穏やかな気持ちでこの世界の空気を吸い込んだときに頬を撫でたものと同じ風。
なつかしい記憶に目を細めて、調合のためにまとめていた髪をほどくと、腰まで伸びたまっすぐな栗毛が翻った。
くるんと揺れた毛先をじっと見つめていたアデルが嘆息する。
「……ま、向き不向きは誰にでもあるって、先生もいってるし」
「問題はわたしに向いているものが見つからないことなんだけどねぇ」
「編み物とか、お菓子作りとか。じょうずじゃないか」
フォローの言葉もしっかり用意している片割れに笑みが零れた。
彼らは九歳のあの冬まで、魔法というものは空想のなかにしか存在しない世界で生きていた。
手と手をつないで二十一世紀の日本から逃げだした先で、いつの間にかイルザークが居を構えるこの森に迷いこみ、雪のなかで見たこともない生き物に襲われた。イルザークに救われて意識をはっきりと取り戻したとき、一体なんの夢を見ているのかと、お互いの頬を抓り合ったものだった。
この世界には神や精霊や魔法がすぐ傍に在る。
大気中に溶けこんだ〈
魔力の多少に応じて能力や理屈は変化するが、基本的にはそういうことらしい。
イルザークは自らを「魔法使い」であると名乗った。
こどもたちをおびやかしたあの生き物が、魔力を有する動物、〈魔物〉の一種であることを教えた。
そしてこの世界において本当の名前を魔法使いに名乗ることの危険性を説き、ふたりに新しい名を与えた。
魔法だの魔力だのが実在するのだと知っても素直に喜べない程度には屈折していたこどもたちは、もちろん戸惑った。
だがイルザークは確かに触れることなく物を動かすことができ、なにもないところから炎や水を生み出すことができた。彼の友人はフクロウに変身し、見たことのない動植物が世界には溢れ、力ある魔物の多くは人語を解す。
六年も暮らすうちに、おとぎ話は日常へ、魔法は確かな生活の知恵へと、ゆっくりと彼らのなかで定着していった。
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