魔法使いのナーズ
天乃律
プロローグ 六年前の雪の日
指先がいたい。
悴んでひとつも動かないのに、痛みだけはあらゆる鈍麻を跳ねのけた。
見上げた薄曇りの空から雪が舞い落ちる。
冬枯れの枝枝をすり抜けては、その根元に倒れて身じろぎもしないこどもたちへ、しんしんと降り積もった。
ちいさな体が、ふたつ。
骸にも似ていた。
雪を融かすほどの体温も最早なく、肢体のほとんどが白く覆われている。
血の巡りの悪い頭で少女は考えていた。
このままきっと、痛みを訴える指先がぽろりと取れて、体がばらばらになって。
やがて、眠るように死んで。
慈悲もなく降りしきる雪の下に沈み、均され、鞣され、やがて彼らは世界になる。
──それでいい、と思えた。
世界のすべてがそのとき、ふたりの敵だった。
唯一の味方だった少年の手を捜す。あの家を逃げだしたその瞬間から一瞬たりとも放さなかった片割れの手。指先がこわばって、痛み以外の感覚が消え失せたとしても、この手だけは見失うはずがない。
かろうじて人差し指が曲がる。すると応えるようにぴくりと動くものがあった。
この手があれば。
この手があれば、雪の下に沈み、均され、鞣され、この知らない世界の土に還り、どこへも行けないまま消えてしまったっていい。
この手があれば死も怖くない。怖いものなど、なにもない……。
そう、諦めにも似た覚悟が心のなかに灯ったとき、少女の視界に黒い翳が落ちた。
犬に似た――しかしそれよりも遥かに物騒な牙と凶悪に捩れた角と獰猛な気性とを具えた生き物が、薄く白を刷いた体に覆いかぶさっている。
この生き物に追われて、ふたりは森の奥深くまで逃げてきたのだ。片割れはその際右のふくらはぎを咬み千切られた。もう立ち上がる力も、悲鳴を上げる気力さえ、ちいさなこどもたちにはなかった。
「……、……」
ずらりと並んだ鋭い牙が脈を確かめるように首筋を這う。
ぬるい息が撫でたあたりの雪が融けていく。
(このまま雪のなかに隠れられればよかったのに)
(こんなけものに喰い散らかされるくらいなら、白く消えたほうがよかったのに)
どこにいるのかも知れない神さまを、動かないはずの体中が震えるほど呪った。
──その、瞬間。
どっ、と視えない力で横殴りに薙ぎ払われた生き物が視界から失せる。
きゃんと甲高い鳴き声がすこし遠くから聴こえた。代わりにしぎしぎと雪を踏みしめながら近寄ってきたのは、一人の男だった。
「下がれ」
発せられた短い一言を受けて、未練がましい唸り声を上げていた生き物は、雪を蹴って遠ざかってゆく。
男は闇よりもなお濃い色のローブを纏っていた。
「……また随分と珍妙なものが紛れこんだものだな……」
顔まですっぽりと隠されているので容貌は見えないが、声は若い。
雪のなかに埋もれようとしているふたりの傍にしゃがむと、少年の額にかかった雪を指先で払った。
「おまえら、魔力がないな。……異邦のものか」
ローブから僅かに覗いたその手は病的に白く、対照的に爪だけが黒く染まっているのが印象的だった。
「〈穴〉が開いたことには気づいていたが……まさか迷い子がふたりも……」
「さわるな」
淡々とつぶやきながら片割れに触れる指を、その瞬間、痛みも限界も超えて動いた体が横から叩き落とす。
世界のすべてはそのとき、ふたりの敵だったから。
一片たりとも容赦なく降りしきるこの雪も、奥へ奥へと彼らを誘うこの森も、森のなかを追いかけてきて片割れのふくらはぎに咬みついたあの生き物も、声や体格からして明らかに自分たちよりも年上のおとなであるこの男も。
両親を亡くした片割れの処遇を押しつけあっていた彼の親戚たちも、彼をいつも根暗だの本の虫だのいじめていた同級生たちも、彼女の目と髪の色を気味悪がって兄と一緒に家を出ていった父も、怨嗟を吐きながら首を絞めた母もみんな。
みんな、みんな敵だ。
──だいきらいだ。
意識が遠のきつつある少年の上に覆いかぶさり、小さな頭をぎゅっと抱きしめる。彼を守るのが彼女の役目だった。いつだってそうやって一緒に生きてきた。こんな男に触らせてたまるものか。
闇色の男はしばらくふたりを見つめていたが、ややあってこてりと首を傾げる。
どこか子どもじみた仕草だった。
「だが、死ぬぞ」
「…………」
「その傷。放っておけば死ぬ」
男の指さしているのは少年の右脚だ。処置の仕方もわからないまま逃げ回り、出血は止まらず、雪を薄紅に染め上げている。
少女は睨む力もなく、ただ茫洋とした視線だけを男に向けた。
この少年を守るのが少女の役目だった。だがいま、彼を救うための知識も、手段も、この身ひとつ以外なにものも持ち合わせていない。
時に身を任せて死を待つ以外、なにもできない。
「触れられたくもないほど大切なものなら自分の手で守ってみせろ」
「…………」
「それもできないのなら、黙って任せろ」
抑揚の浅い、平坦な声だった。
男は少女の選択をただ待っている、それ以上でも、それ以下でもない。
雪は無慈悲だ。
ふたりの上にすこしずつ、すこしずつ降り積もり、やがては小さな躰を覆い隠し、白く染め、支配し、冷たい指先から世界に沈んでいく。
均され、鞣され、やがて彼らは世界になる……。
「死ぬのか」
「…………」
「ここで死ぬのか。ふたり一緒に」
喉の奥がひりひりと痛んだ。少年を抱く手が、知らず震える。
腕のなかで、混濁する意識をつなぎとめた少年が僅かに手を伸ばして、少女の脇のあたりに触れた。撫でるような、そんな動きをしかけて力尽きる。
ぱたり、手が雪の上に落ちた。
やさしく、死の気配に満ちた動きだった。この男の手を取っても拒んでも、彼が彼女を責めることはない──
死んだら責められない。
その瞬間、ぞ、と肺腑の底からあらゆる恐怖と絶望が這い上がってきた。
この手があればなにも怖くない。──だけれど、死んでしまえばこの手は二度と動かない。
死んだらどこへ行くのだろう。
いま、こうして片割れを抱いて寒さに震えているわたしは──この男に頼るべきか死ぬべきか考えているわたしは──そしてなによりも、この腕のなかで確実に死に近づきつつある片割れは──死んだら一体、どうなってしまうのだろう。
粛然と目の前に横たわる死よりも、片割れの存在がなくなることに対して湧き上がった恐怖は、ぎりぎりのところで均衡を保っていた緊張の糸をふつりと切ってしまった。
一度、大きくしゃくり上げる。
そこが限界だった。
ぽろぽろと少女の眦から流れはじめた大粒の涙を観察した男は、ちいさく息を吐いて、懲りずにその指を伸ばしてくる。
片割れの雪を払った黒い爪が、今度は少女の頬に触れて涙をぬぐった。
「泣くな。凍る」
「……、……けて」
「聞こえん」
「たすけて」
「ああ」
「死に、たく、ない」
「そうか」男は顔色を変えないまま、ただうなずき、繰り返す。「……そうか」
「死にたくない……寒い……いたいよ……血が止まらないの」
男はその一つひとつに「ああ」「そうか」と相槌を打ちながら、こどもふたりをまとめてその腕に抱きかかえた。
「い……、を、たすけて」
「ああ……」
呻くように声を洩らし、男は少女の背を撫でる。
「たすける」
長いこと雪のなかにあった体は芯まで凍えきっている。肌に触れる男のローブも冷たかった。
ただ頬を伝う涙だけが、火傷しそうなほどあつかった。
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