第3話 先生と〈火蜥蜴〉
右脚を引くアデルと手をつないで、リディアは階段を下りていく。
玄関のドアを無造作に魔法で開けたイルザークが、弟子二人の後ろから姿を現したシュリカを見て二度瞬いた。
「来たのか」
「おう。薬できてるか?」
「ああ」
イルザークの肩を、闇よりなお濃い色をした長い髪が滑り落ちる。
彼の姿かたちは初めて出会ったあの日からひとつも変わっていない。白目の部分の極端に少ない黒亀色の双眸や、長年の研究や魔法薬の調合によって黒く染まった指先、切るように淡々とした喋り方、そして夜の海で染め上げたような黒衣。リディアたちの世界ではどちらかというと悪の手先の扱いを受けそうな見た目だ。
彼らが居を構えるこのベルトリカの森、ここから一番近い町であるオクの住民たちは慣れたものだが、イルザークの噂を聞きつけてわざわざ遠方からやってくるような客は、一度はぎょっと身を引くほどの黒ずくめっぷりである。
そんな見た目だからか、彼はどこかしんとした空気をまとっていた。
静寂が
「これからティータイムだよ、先生。座って待ってて。あっ、その前に手洗いうがい!」
「ああ」
リディアとアデルはキッチンに向かい、大人二人のお茶を用意することにした。
午前中に焼いてあったベリータルトをアデルが皿に取り分け、リディアは湯を沸かすための薬缶を取り出す。
この家には、師が契約を交わした魔物〈火蜥蜴〉が棲んでおり、火を使うときには彼──性別は特にないが一人称が「おれ」なので彼と呼んでいる──に熾してもらえば事足りる。リディアは鍋に水を入れて「コルシュカ」と呼んだ。
ぼぼ、と竈に火がついて、その炎がちいさな蜥蜴の形を描く。
「今日の夕飯は何だい、お嬢」
「今日の夕飯は羊肉の赤桃煮だって、コルシュカ。やったね!」
「いやっほう」
目を細めてしししと笑った炎に、アデルがちょっと目元を緩めた。
「野菜をとってきたら準備するから、味見よろしくね」
「お安い御用だぜ、
沸いたお湯でお茶を淹れると、砂糖とミルクを添えて、タルトもまとめてお盆に載せる。こればっかりはアデルにさせることができないので、客にお茶を出すのはいつもリディアの仕事だった。
「お待たせ。今日は自信作です! かわいいでしょう」
薄桃色の春ベリー、濃い紫の花葡萄など、様々なベリーの実を敷き詰めたタルトはつやつやと輝いて宝石みたいな見た目をしている。
シュリカは「おお」と目を丸くした。
「今日はって言うが、リディアのおやつが不味かったことなんて一度もないぞ」
「それはシュリカさんの贔屓だよ。アデルはたまに酷評するもの」
「だって花葡萄はまだしも、春ベリーは睡眠薬の材料だよ。なんだか食べたら眠くなりそう。リディア、誰か眠らせたい相手でもいるの?」
「乾燥させて粉にしたらそりゃ卒倒ものだけど! 実は甘くておいしいもん!」
きゃんきゃんと言い合いを始める少年少女を見やり、シュリカの目元には慈しむような笑みが漂う。
「よく勉強してる弟子じゃないか、イル。──天海のくじらの今日も変わらぬ恵みに感謝し、明日も変わらぬ幸いに祈りを」
僅かに
こちらの世界では「いただきます」ではなく、天海のくじら、神々よりも旧き存在である聖獣に恵みを感謝するのが普通らしい。
初めて聞いたときは(くじらに?)(長いなぁ)と、子ども二人で顔を見合わせたものだった。
話があるという大人たちが静かに視線を交わした。
その横を抜けて、弟子二人は家の裏手にある畑へと向かう。
雪の支配を受ける冬を超えて季節は春を迎えた。植垣や花壇の草花が一斉にほころび、色とりどりの花弁が目に美しい。
「赤桃~あかもも~おいしいな~」
魔術と同じく歌のセンスもいまいち残念なリディアだが、思わずふんふんと鼻歌まで奏でてしまうほどの、穏やかな春。
一歩後ろをゆっくりとついていくアデルは、相変わらずなんともいえない彼女の作曲センスに表情を柔らかくして、ひょんひょんと揺れる栗毛の先を見つめた。
すると、二人の頭上に大きな翳がかかる。
「あ……、くじら。今日はずいぶんと低いところにいるね、明日は雨かな」
リディアが首を仰け反らせて空を仰ぐと、アデルも僅かに顎を上げてうなずいた。
天海のくじら。
固有の名は、誰も知らない。
そもそもこの世界の空とは、天海と呼ばれる海の底であるそうだ。
空に浮かぶ白い雲は、天海で寄せては返す白い波濤のことを指す。天海には神々の住まう神殿が諸島を成しており、そこで神は夜な夜な宴を開く。その際に見える灯りが、地上では星と称される。
天井に住まう神々よりももっと旧き時代から存在する聖獣、世界の起源を知る存在であると語られるくじらは、天海を気儘に遊泳しては地上を見下ろし、見守り、恵みと幸いを与えているという。
空に溶けこむとうめいな巨体は、高くなく低くもない咆哮を引き連れて、白い雲の軌跡を残しながら南へと小さくなっていった。
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