第19話 閉ざす未来

 その背にある六つの黒翼が、彼女の姿をより大きく見せた。翼と呼ぶにはあまりにも惨烈な様をしているからだろう。羽毛はなく、ただ骨格だけが剥き出しとなり、それを伝うように黒い粘質の液体が滴り落ちる。


 ネルの触手と同様のものを感じるが、しかしそれ以上に心を掴んで放さない。子供のころに見たホラー映画を思い出した。拭い去ることのできない映像。いつまでも頭の中に残り、心を休ませてはくれなかった。


 けれども、これがネルの全力だ。


 マリナヴァルに勝つためにできるすべて。


 しかしながら、マリナヴァルの強さにも驚かされる。ノノリルの気配を察したときには、すでにネルの思惑に気付いていたようだった。一秒足らずの時間に、なにもかもを把握していた。


「どうにも、この世界は甘くない」


 マリナヴァルがそう呟くと、炎の壁が爆発した。爆風とともに、炎刃が花火のように四散する。まるで先ほどのネルの攻撃のように、赤色が視界を埋め尽くした。高熱で焼き、高速度で斬り刻んでいく。


 防御すら拒むように襲う爆風。身体が浮き上がり、回避すらできなくなる。無様に宙でもがこうとするが、それすらも叶わない。


 だが、そのあとに続くものはなかった。


 たしかに身体ごと吹き飛ばされ、地面に打ち付けられたが、本命の刃が一向に飛んでこなかったのだ。


 どうして、とネルは痛みを堪えるために閉じた瞼を無理やり開く。


「こ、これは……」


 炎の世界が広がった直後に現れたのは、鎮火の森林のような世界だった。地面からいくつもの細い黒線が伸び、枝のように広がったそれは、炎刃を貫き捕らえていた。


 ふと頭上を仰ぎ見た。そこに広がるのは天井を失った建物を額縁にした濃紺の空。満天の星はなく、異様に大きく赤い月が地上を見下ろしていた。そこから感じるものは神秘的なものでは決してない。


 凄まじい轟音に、視線を戻した。アンリとマリナヴァル、そしてノノリルが戦っていた。地面から生えている木々の正体はやはりアンリの翼だった。彼女は伸縮自在のその翼を攻撃や防御だけでなく、移動にも駆使していた。そのためか、一つひとつの挙動が速い。目で追うのが精いっぱいだった。


 それだけでなく、マリナヴァルはさらに、ノノリルとも戦っている。銀蛇を討伐しながら、黒翼に応戦していた。


 しかも押されているのはアンリたちの方だ。劣勢であるはずなのに、マリナヴァルは退かない、前へ、前へと進む。この場で最も危険であるアンリにもう一度膝を着かせるために、否その首を落とすために、進撃を止めない。


 類稀なる才を持った者たちによる戦い。


 それは人間の枠を遥かに超え、その先にある「神の域」に達している。


「僕も、行かないと……」


 その「域」に踏み込む力は残されていない。力が残っていたとしても、ノノリルのように再生に特化していないネルでは、目まぐるしく変化する攻防には耐え切ることができないだろう。その場で殺され続け、再生を繰り返すだけだ。


 今ならば、ただ殺されるだけ。


 だからこそ見逃されている。風前の灯火(ともしび)であるが故に、マリナヴァルに脅威として認識されていない。参戦してこないと思われている。


 逃すわけにはいかない好機。


 この世界のことなど、ほんの一握りも知らない。その末端も末端に少し手をかざした程度でしかなく、理や条理、意義や意味を理解しているわけじゃない。たぶんこうだろうと、こうであって欲しいと考えてきただけだ。


 すべての出会いに意味があったのか。


 どうして彼らであり、彼女たちでいけなかったのか。


 なにもわからない。


 わからないが、それでもネルは確信している。


 間違った道を進んでいないと。


 だから立ち止まってはいけない。留まってはいけない。間違っていないとわかっていても、その道が照らされる時間は限られている。今を逃せば、もしかしたら永遠に終わらないかもしれない。


 歩く。


 一歩ずつたしかに。


 赤と黒と銀の交わる場所へと近づいていく。赤い粒子は天に向かい、銀と黒の欠片は血に落ちていた。熱や異臭さえなければ、いつまでも見ていたい幻想的な風景に、ネルは思わず笑みをこぼした。


 自然と動く足も速まり、歩幅も広がる。


 粒子と欠片を身体に受けながら、ただまっすぐに突き進む。暖かさと冷たさが混在した奇妙な空気を吸い上げ、その黒化させた左腕の拳を振る。


 妨げる炎の壁。その向こう側に、マリナヴァルの驚く顔があった。その理由はわかる。すでにネルなど眼中になかったからだ。もうとっくに「終わらせた存在」だったのだから。まさか立ち向かってくるとは思っていなかったのだろう。


「まだやれるというのか」


「神様に祈る時間なんていらないんだよ!」


 ネルが力を込めると、マリナヴァルを守る壁は半球にかたちを変えた。全方向から攻撃に対応する姿勢だ。やはり強固。誰の攻撃も通していない。


 しかしそれがネルの背中を押す事実でもあった。二人を相手にして防御に回らなかったマリナヴァルがそうしている。そうせざるをえなくなっている。マリナヴァルもまた限界なのだ。アンリと戦い、ネルと戦い、そして今はその二人を含めた三人を相手にしている。消耗していないはずがない。その証拠にその衣服や身体には、多くの傷ができていた。


 まだやれるのか。


 それはネルがマリナヴァルに言いたいことでもあった。限界というのなら、マリナヴァルもまたそうだろう。怪我をしても瞬時には治らない。致命傷を負えば、それで終わりだ。命のやり取りを続け、精神が摩耗し、体力も消耗しているはずなのに、マリナヴァルはまだ戦っている。


 成すべきことを成すために。


 可能性が極めて低い理想を夢見て。


 その主柱が折れぬかぎり、きっと倒れることはない。


「あなたは、凄いよ……」


 ネルの心はなにかに満たされ始め、素直にそれを言葉にしてしまう。


「きっと僕はそんなふうになれなかった。どんなに頑張っても、あなたようにはなれなかったと思う」


 怒りは相手を知ることで研磨され尊敬という感情に変化し、けれどもその核にある「勝利」の二文字は消えずに燃え盛っている。


「だからこそ、勝ちたい!」


 その壁を砕こうと拳を握りしめ、地面を踏み締める。マリナヴァルのことは尊敬し、憧れもした。けれど、ノワルゲートに災厄をもたらした事実を許したわけじゃない。どんな正義や大義があったとしても、理想や理念が掲げられていたとしても、ミリアとトリル、その周りの人たちを奪ったことを、ネルは決して許しはしない。


 ノワルゲートがこの世界での巨悪で、


 ブランドアにとって害悪でしかないのだとしても、


 ネルには、失いたくない場所なのだ。


 壁と拳の衝突で生じるのは、紙片のような黒いモノ。それは衝撃に耐え切れずにネルの腕から剥がれ落ちたモノだ。少しずつ、少しずつ、残りの力が失われていく証拠でもあった。


「どうやら私は間違っていたようだ」


 マリナヴァルの眼光が鋭くなる。


「この場で最も危険な存在はきみだ。『探求者』でもなく、その『実験体』でもなく、ほとんど力の残されていないきみこそが、ブランドアの未来に影を差す者」


 ネルは目を見開いた。


 マリナヴァルの右目から血が流れ出ていたからだ。絶え間ない連戦に、身体が悲鳴を上げているのだろう。いや、すでに限界を超えてしまっているに違いない。限界を超えてなお、マリナヴァルは立つ。決して屈しない。


「きみという悪夢を断ち、私は未来を切り開く!」


 壁を形成していた炎が高速回転し、やがてそれは竜巻になった。その勢いは凄まじく、そこに向かう攻撃を弾くのではなく飲み込むほどであった。勢いが強まる前に弾かれていたネルはなんとか免れ、様子を窺っていた。


「これは……」


 竜巻の正体は攻撃ではない。高速回転させることで収束させ、高密度のエネルギーを作り上げているのだ。周りのものを飲みこみながら、余波による炎刃を放ちつつも、純度を高めていく。空気が、地面が振動し、熱が異様に上昇する。


 攻撃すればその力の一部となることがわかった以上、アンリたちも手が出せない。周囲にばら撒かれる余波を避けることを徹底する。


 それほど無数に生じているというのに、それは攻撃ではない。


 まだネルと決着をつけるための準備段階でしかない。


 ネルは待つ。


 その瞬間を。


 やがて耳鳴りのような音が聞こえ始める。


 限りなく張り詰めた音。


 緊張感が高まり切ったような音。


 それが止んだとき、


 高まり過ぎて聞こえなくなったとき、


 竜巻が爆発し、他の者の干渉を一切許さない状況となった。


 二つの刃を持ち、向かってくるマリナヴァル。


 爆発の勢いと、高密度で練られた炎の刃による一振り。


 それはいともたやすくネルの身体を焼き切っていく。


 だが、わかっていたことだ。


 対応しきれないのは承知の上だ。


 だからこのときを待っていた。


 左肩から切断されながらも、ネルはその腕を精一杯伸ばした。


 振り下ろされていた右腕をまず奪う。


 目指すはその先。


 しかしマリナヴァルの攻撃も止まらない。


 右腕を失ったときすでに、もう片方の炎刃を振り下ろしていたのだ。


 同じく予期していたのだろう。


 想定していたのだろう。


 だからマリナヴァルの両断の方が速かった。


 けれどもネルの伸ばされた腕は、


 触手のように伸びた手は、


 その先にあるモノに到達していた。


 心が宿るその蔵に。

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