第18話 罪の底
その声は幻聴ではなく、まぎれもなくたしかなものだった。しかしそれは耳で聞く声ではない。脳に、あるいは心に直接響いた。
――ネル。聞こえる?
ネルは思わず口を開いて返事をしようとしたが、なんとか押し留まった。その声の主がアンリであること、それをマリナヴァルに知られてはいけないことは瞬時に理解できたからだ。開きかけた口を開け放ち、そこから赤い液体を吐き出す。身体が欠損している状態なのだから不自然ではないだろう。ネルは心の中で返事をしたあと、その場から跳ねるように移動した。自分が乗っていた床から炎刃が突き立つ。
――あなたの中に残る『繋がりの残滓』を使って声を届かせているから、そう長くは話せないわ。
ネルは黙って次の言葉を待った。残滓と言うからには、無駄な会話をする時間は残されていないのだ。いちいちリアクションを取っている暇などない。
――マリナヴァルを倒しなさい。どんな手を使ってでもね。そうすれば、夢の終わりを迎えられるわ。
鼓動が強まり、一瞬の間が生まれた。聞き返す時間がないことは知っていたが、それでもネルは訊ねようとした。しかしその意識に切り替わったときには、すでにネルの中からアンリは消滅していた。彼女との繋がりが、残滓すら残らず完全に失われたのだ。
夢の終わり。
なぜアンリがその言葉を使うのか。
その意味を知るためにも、成さねばならない。
マリナヴァルの行動意志はわかった。あの夢で見た言葉は嘘でもあり、真実でもあったのだ。ただそれは一人の神焔法使いの言葉としてのもので、あるいは『賢者』としての言葉のものだったかもしれないから混濁していたのだ。
彼の立場がどっちに傾いたかで紐解ける。
しかしまたわからないことができた。マリナヴァルの言う「罪の底」とはなにか。単純に考えれば、人を殺すことだ。一つの国を滅ぼそうとしているのだから、そこに住まう人たちを殺すのは必然。罪を重ねなければ成しえない。
けれども、マリナヴァルの言葉にはそれ以上のなにかを感じられた。もっと重く、それこそその行いの罪深さに身を焦がしているかのような。
人が人の命を奪う罪。それはどこも変わらない。
人と人。
「まさか――」
ネルがなにに気付いたのかを察するように、マリナヴァルはそのあとを引き継いだ。淡々と紡がれる言葉は、感情という熱がこもっていないからだろうか、酷く冷たく、それこそ刃のように突き刺さる。
「そうだ。人を異形に変える大罪を犯したのは私だ。ノワルゲートのすべての人間を廃獣化させる計画を立てた」
「廃獣化しても人は人だ。大義があったとしても、人殺しに変わりない」
「だが、それは意識の問題だ。もとが人間だからと言っても、彼らはすでに『人間』としての存在を失っている。もとには戻らない。病でも怪我でもないのだから。まさしく『人を廃した獣』なのだよ。ならば救済すべきと、私たちならばなるだろう」
ブランドアがそういう意識を持っていることを、ネルはすでに知っている。あのときは建前だったかもしれないが、彼女以外の命を奪ったときはたしかに『救済の意識』があったのかもしれない。
ネルは『罪の底』の意味を理解した。ノワルゲートとブランドアの二国を手玉に取らんとするマリナヴァルの罪深さは計り知れない。人を人から外し、善の意思を利用して行いを正当化している。
そうやってブランドアを操りながら、ノワルゲートを終わりに近づけていた。
「私は終わらせたいんだ。単純な競争ではない、血肉を削り合う争いを。きっときみたちを滅ぼしたところで、それはなくならないだろう。恐怖と危機感、疑惑や嫌悪が人々の心から消滅することはないのだから」
ネルは熱に押され始めていた。神焔法の熱。そしてマリナヴァルの想いの熱に、身も心もじりじりと焼かれ始めている。
舞い上がる火の粉の一つひとつが、マリナヴァルの想いの欠片だ。触れる度に記憶の映像が流れ込んでくる。どんな感情を抱き、葛藤と対峙し、心を削り、時間を費やしたのかが、痛いほどに伝わってくる。
知っているかい、とマリナヴァルは言う。
「悪夢を終わらせるためには、より深く、濃い悪夢を見るしかないんだよ」
実現が不可能に近い理想(ゆめ)。
実現のための悪夢(みちのり)。
ネルには辿り着くことのできない答え。
自分で考えることを放棄し、感情を、そして自分を殺してきたネルには、マリナヴァルのように苦悩することができなかっただろう。その「役目」にただ身を任せていたに違いない。
偽れなかったマリナヴァル。
偽ることをやめたネル。
故に二人は今、対峙している。他の誰でもない。自分自身の理想を実現するために。
言い換えれば、それは「我儘」だ。抑えることのできない想いを、赤子が泣き叫ぶように誰かれ構わず、どこであろうと関係なく、ただただ解放しているのだ。
しかし。
「わかったよ……」
ネルにとって、マリナヴァルの想いなどどうでもいいことだった。マリナヴァル個人にしても、彼の仲間のことにしても、ブランドアの存亡にしても、ネルにとっては微塵も関係ない。
押しつけられるその正しさは不愉快でしかない。
その正しさのために、理想のために、奪われた大切なものがある。
マリナヴァルが赤子のように叫ぶのなら、ネルは子供のように踏み躙る。万人が求める平穏を、身を犠牲にする尊さを、積み重ねられた屍と歴史を、この世界のどこの誰でもないネルが、個人的な理由で踏み荒らす。
振り下ろされた炎の刃を、触手が受け止める。焼き切ろうとするそれを、再生を繰り返すことで押し止めた。
「だったら僕が……。僕があんたを『悪夢』から覚ましてやる!」
「私に協力する、というわけではなさそうだ。ならば私も、きみをその『悪夢』から解放するしかあるまい」
二人の言う『悪夢』は同じ言葉でも意味が違う。しかし覚ますこと、解放することはおそらく同じだ。悪夢を終わらせる方法。現状から逃れられる手段。なぜ悪夢を見るのか。どうして悪夢から逃れられないのか。
それは生きているからに他ならない。
生があるから、より高みを目指し、幸福を求め続ける。その道程、過程で生じる絶望や痛み、苦しみなどが『悪夢』であり、現状に満足し、思考することを放棄した者だけがその枷から外れることができる。
だがそうできない。
現状に満足など不可能。
思考せずにはいられない。
できる者がいるならば、それはすでに死んでいる。
ネルはあのとき、あの場所で死んだ。だがしかし、こうして夢で生きている。思考し、苦悩し、絶望している。つまり、まだ“生きている”のだ。悪夢を見られるほど、命がまだ残っている。
だから、もう一度。
今このときより、ネルは「仮面」を外す。その下に隠していたものを曝け出し、それによって見ずにいたものを直視する。今までのネルではマリナヴァルには勝てない。あまりにも覚悟が足りない。過去から受け継いだ称号を捨て、称賛と栄誉の未来を潰し、そして今を生きる自分を殺すマリナヴァルに勝つためには、それ以上を諦める覚悟が必要だ。
マリナヴァルにはない覚悟。
いや、ないというよりはできない覚悟。
若さゆえに、未熟だからこそ、ネルにできるのがそれだ。
受け続けるだけだった触手で、炎剣を力任せに弾いた。神焔法の攻撃力を前に、ネルは再生力を高め切ることで対応する。「修復のための再生」ではなく「押し返すための再生」であるため、触手はさらに歪なかたちをとった。
爆発的な再生力は諸刃の刃。二度目の生を明確に消費している。忘れていた、あるいは積み重ねてきた疲労が押し寄せるがごとく、脳に、身体に、心にのしかかっていく。伝わる痛み、張り付く苦しみは、それこそ悪夢のようだった。ふとした瞬間に逃げ出してしまいたいと心が折れそうになる。
だからこそ、なのだろう。ネルは「生」を感じていた。己を曝け出し、己を曝け出す相手と対峙しているその状況に、喜びを覚えてしまう。もしもこれが現実だったらと夢を見たくなるほどに。
こんなふうに「戦えていたら」どんなに楽しかっただろう。
傷を負うたびに、想像してしまう。
自分を殺さなかった日々を。
誰に従うわけでもなく、友人を利用できるものの一つとして数えるのでもなく、学校をただの肩書作りの場所と評価するのでもなく、隠さず、見下さず、笑って、泣いて、怒って、悔しがって、そこでしか、そうすることでしか育まれることのない「モノ」を大切にする――そんな人生を送りたかった。
あのまま生きていたら、きっと気付かなかっただろう後悔。
間違い終えて知る間違い。
気付き、知った。
だから改められる。
全力で自分を殺すのではなく、全力で自分を曝け出す。
そしてネルの知る“全力”でマリナヴァルを倒す。
舞い踊り、あるいは荒れ狂う炎。その熱に、光に身も心も焼かれていく。命も例外ではない。けれどもネルは抗った。手足がもがれようとも、皮膚が焼き爛れようとも、存在が保たれているかぎり、神の炎に抵抗する。
六枚に開かれた触手の口から、数多の黒線を放つ。マリナヴァルだけでなく、その「炎」でさえ塗り潰さんばかりである。それらは炎を穿ち、その勢いを失うことなく建物全体を蝕んでいく。支えを失った天井や壁が崩れてできた瓦礫は、無数の黒線に触れて細分化されていき床に落ちることには砂同然の在り様にまでなった。
そんな破壊的な時間が過ぎ去っても、マリナヴァルは戦塵の中から現れた。傷は負っていないようだが、その表情はやや曇っていた。
「恐ろしい。眷属というだけでなく、繋がりを切られてなお、ここまで戦えるというのか。こんなにも死を拒めるものなのか」
「まだだ……」
「まだ?」
その声が鼓膜を震わせたとき、すでにマリナヴァルはネルの傍に立っていた。
驚く暇もなく、それを認識したときにはネルの身体は無数の刃に貫かれ、マリナヴァルの握った炎刃が右胸に納められていた。まるでそこが鞘であるかと言わんばかりに、元あるべき場所だと告げるように、するりと、滑らかに、拒絶や抵抗もない。
口腔に押し寄せてきた血液が、弾けるように外へと吐き出される。その血を浴びるマリナヴァルの眼光は鋭く、先ほどの曇りはない。
「まだ、なにかできると言うのか?」
ネルは言葉にせず、ただ不敵な笑みを浮かべた。声に出せなかったのは、言葉にできなかったのは、できるという一言のみ。
全力は、これからなのだから。
ネルの様子を訝しみ、注意を向けていたマリナヴァル。しかしすぐにその視線は別の方向へと向けられた。
「まだできるよな、後輩くん!」
巨大な銀色の蛇。
それは肥大したノノリルの右腕だった。
飛び掛かりとともに振り下ろされたその巨椀を、マリナヴァルは炎の壁で防いでいた。どれだけ焼かれようとも、彼女の腕はその大きさを失うことはない。次から次へと銀蛇が生み出されては、腕を構成していく。
しかしそれだけでは終わらない。
彼女だけでは、始まらない。
マリナヴァルもそれにはすぐに気付いた様子だった。ネル、ノノリルに注意を払っていても、それはほんの一部でしかない。ネルを刺し、ノノリルを受け止めていても、その視線はさらに違う方向にある。
やはり格が違う、ネルは静かに思った。
これが、戦いの場での――。
「悪夢を見せてあげるわ」
冷たく、そして静かに、アンリは言い放った。
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