第4章
第17話 断絶される命
身と心、魂までもが揺さぶれられるほどの重圧感がネルを襲った。それはほんの一瞬ではあったが、本能が警告を鳴らし、反射的に臨戦体勢に入っていた。
「なに、今の」
異変はすぐに見つかった。濃紺と灰の入り混じった空に、赤みが増していた。およそ黄昏時とも言えることのできない、不自然な色合いにネルは思わず息を呑んだ。
感じた重圧感。それは神仏を祀る空間に足を踏み入れたときのような、広大な自然を目の当たりにしたときのような、神秘的な畏怖だった。
そしてその中に、これまで経験したものを感じた。
「神焔法……でも、今までのより」
ずっと清らかだった。
同じ者と理解できながらも、同じだとは思えない矛盾。それほどに異質な力だ。
そしてなぜかその使い手をネルは連想できてきた。『街の夢』から覚める間際に見た別の夢にいた、椅子に腰かけていたあの男こそ、その正体である。
争いを望まない口振りだった男がなぜ、とネルが考えようとしたとき、
「無事だったか、後輩くん」
聞き慣れた声が、しかし聞き慣れない位置から聞こえてきた。顔を向けた先は地面だった。
そこには一匹の銀色の蛇がいた。つぶらな瞳をこちらに向けているかと思うと、勢いよく飛び上がり、ネルの腕をするすると登って肩に到達した。
「居場所はわかるね?」
そう問われて、すぐになんのことか察する。大きすぎる力だったため特定は容易だ。ネルは頷いて、その方角へと向かった。
向かっている途中、何百人ものブランドア兵の死体と、数十人のブランドア兵を見かけた。それに廃獣もまだ少なからず存在していた。ネルはそれらを殺しながら進んでいく。
「躊躇いがなくなったねえ」
「うん。嫌いだから」
なにが、とは言わずに、切り返して問う。
「ノノリルなの?」
「まさしく。言いたいことはわかる。どうしてこんな姿なのかってことでしょ?」
ネルは頷いた。
「原因は二つ。『光剣』にソウルを吸われたからなのと、そいつと後輩くんがアホほど魔力を使うからこっちに回ってこないからだ」
「能力が使えないんだ。アンリにも限界はあるんだね」
逸脱した際の持ち主でもやはり人間なのだ。近くに感じて嬉しいような、遠くの存在でいて欲しかったような、複雑な気分になった。
「むしろまだ限界が来てないのがおかしいんだよ。化物三体に魔力を供給しながら、あいつは今、『賢者』と闘ってるんだから」
「『賢者』?」
「ブランドアの最強にして最高の神焔法使いだよ。名前はマリナヴァル・ルスケニス。ブランドアにいるすべての神焔法使いの師でもあるね」
それを聞いて、あの夢の様子が紐解けた。関係性がわかれば、あの会話の意味も、あの言葉に込められた感情も、知ったも同然だ。
「この先にいるんだ」
「察しが良くてよろしい。ご褒美に鱗を一枚あげよう」
進む道があれば足で、目の前に建物が立ち塞がるのなら触手を使ってそれを飛び越え、ただひたすらに一直線に進んだ。地面の上にはさらに多くの死体が転がっていた。切り刻まれ、どれが誰のパーツかなどわからない。赤く染まっていない場所の方が少ないくらいだ。そしてそれは建物もそうだった。あちこちが赤く染まり、そしてパーツが散らばっている。
誰がやったのかなんてわかりきっていた。
こっち側でよかった――心の底からネルは思った。
血生臭さや焦げ臭さはあるものの、空を切って進むのは気持ちがいい。
途中まではそう思っていたが、目的地に近付くにつれて、それは変化する。まるで火山を登頂しているかのような熱気が肌を焦がそうとしていた。その熱は本来ならば暖炉のような居心地の良さを抱かせてくれるのだろう。しかし“ネルたち”には暖炉に投げ込まれたかのような居心地の悪さを抱かせる。
「いたよ!」
「わかってる」
ネルが辿り着いたのは、豪華な装飾や細やかな彫刻が刻まれた横広な建物だった。所々で垂れ下げられた金の刺繍が施された赤い布が風で揺れている。そこに記された文字から、ここが劇場だということが察せた。だが、今はその扉の先に待ち受けているのは娯楽や感動ではない。それは建物が“内部から”発する圧迫感からもわかる。
一歩が重い。心が擦り減っていくのがわかる。しかし今さら臆するわけにもいかないのだ。この世界に来て成すべきことが待ち受けているかもしれないのだから。
ネルは観音開きの扉を堂々と真中から抉じ開ける。どっぷりと溢れる熱気と重圧感(プレッシャー)。「最悪の気分だ」と嘆いたノノリル。それもそうだ。ネルたちは劇場に踏み入れたのと同時に、敵の神焔法の中に全身を投げ出している。感覚からして、魔力を奪う神焔法だろう。ここで振るいをかけている、とも言える。
「どうやら誘われているみたいだ。引き返す?」
「行くよ。アンリが死んだら僕たちも終わりなんだから」
赤色のカーペットが進路を示すように敷かれている。ネルが入ってきた扉と合わせて三つの出入り口に伸び、それから両脇の弧を描いた階段にも同様だ。一階はさらに出入り口の反対側で四つに分かれている。真ん中の二つが真っ直ぐ奥に、両端の二つは斜めに外側へと伸びていた。
ネルは心が焼けていくのを感じながら直進した。真ん中の二つの通路が同じ場所へと繋がっているのは気配でわかる。視認できるという誤認をするほどに。ふと視線を目の端へと移した。従業員の立つはずのカウンターがある。荒れた様子がないことに、怖気が差した。「外」の様子を知らない「内」は今も「外」から来る客を、あるいは従業員を、すなわち人を待っているのだ。
望まれない者たちしか訪れないのに。
灯りのない通路の先に再び観音開きの扉が現れる。両手で二つの手摺を掴み、一呼吸置いてから力を込めて押した。
これでもかと言わんばかりの光がネルを包んだ。そこは体育館のように奥行きのある広く天井の高い部屋だった。馴染みはないが、おそらくはダンスホールだろう、とネルは映画の一場面と照らし合わせた。ただし、その場面とは違い、この場所は「炎上」していた。ネルを包んだ光は、神焔法のものだった。
部屋の中央より少し奥に、二つの白い影があった。一つは白衣を纏ったアンリだ。膝をついて顔を俯かせていたが、ネルに気付き少しだけ顔を向けた。
もう一つは、白いローブを着た男だった。銀色の髪が逆立ち、顔には薄い皺が浮かび、四十か五十歳ほどに見える。右目側にモノクルをつけていた。アンリと同様にこちらに気付き、しかしアンリとは違い、身体を向けてしっかりとネルを見据えた。鋭いわけじゃないが、観察するような目にネルの心臓が跳ねた。見通されている、そんな気がしたからだ。
これが『賢者』と呼ばれる男。
マリナヴァル・ルスケニス。
「『不死の眷属』――そうか、彼は負けてしまったようだね」
声を出すのが遅れ、代わりに柔らかい声がホールに響いた。ネルに話しかけているというよりは事実の確認だ。そしてここにはいない誰かを思っている。
ゆっくりとこちらに歩いてくるのに、ただ歩いているだけのはずなのに、ネルは息を呑むことしかできないでいた。いや動かないでいたのだ。安易に動き、事態が悪化するのを拒んでいる。まだそのときではないと本能で理解できていた。
「きみは少し“特別”のようだ」
そう『賢者』が告げ、少しだけ強く床を踏み鳴らすと、突風がネルの身体を通り抜けていった。堪えられないほどではなかったにも関わらず、ノノリルと『賢者』の背後にいたアンリが等間隔に並ぶ柱の外側へと吹き飛ばされた。そして二つの赤い檻が現れ、二人をそれぞれ収容した。さらに、柱という点をなぞるように薄い赤色の壁が現れた。外部と内部が完全に分かれたことになる。
数秒にも満たない時間で分離が行われ、最後を締め括ったのはアンリの一瞬の叫びだった。普段の彼女からは想像できない声。痛みと苦しみが瞬時に理解できた。
「アンリ……! 先輩……!」
「心配することはない。ただ、少しずつ魔力が燃え尽きていくだけだ。全身を走る苦痛に慣れれば動けるだろう。まあ動けたからと言って、きみたちの『繋がり』が戻るとはかぎらないが」
ネルはその言葉に、そして自分がちょうど今感じた違和感の正体に驚愕した。ただの『一対一』に持ち込まれただけじゃない。本当の意味で『一対一』だ。彼の言う『繋がり』が断たれた。
つまり、ネルはこれから『命』を消費し続ける。アンリが繋ぎ止めていた時間が、誤魔化していた時間が動き出したのだ。
「なるほど、すぐには終わらないのか。その『特別』は――『不死性』は厄介だ」
「くそっ!」
活動時間に制限をかけられたために、ネルは動いてしまう。不用意に行動してしまえば命取りになることも、相手の出方がわからないうちは危険だということも充分に理解していたが、用意周到になることも、相手の情報を悠長に得ている暇もなくなった焦りがそうさせた。
なによりこの世界でのネルの心の支柱となっていたアンリとの『繋がり』が切れたことで不安になってしまったのだ。
勢いよく伸ばした触手は、しかし相手に届くことはなかった。
炎の刃。
地面から突き出たそれが、ネルの触手を切断した。驚きを隠せない。触手が切断されたからではなく、突発的な行動に対して“知っていた”かのように合わせることができていたからだ。
一瞬の隙を突くように、四方八方から現れた炎の刃がネルの身体を貫いた。常人なら即死の攻撃だ。
「そんなものを使ったのなら、彼は相当な怒りをあらわにしたことだろう」
「あんたは違うんだ」ネルは再生をしながら言う。なぜか追撃はない。
「私はきみたちが異形になろうとも、神の座に至ろうとも構わない。ただこの無益な争いを終わらせたいだけだ」
「ただ『知識』を与えるだけじゃなかったのかよ」
「そうか。『街の夢』で彼の記憶(ゆめ)を覗いたのか」
ネルの言葉に、マリナヴァルは顔色を変えなかった。まるで動揺がないことが、ネルは悔しく、そしてただ恐ろしかった。
「本当はそうするつもりだった。そうあるべきものだと、私も師から教わっていたからだ。教え子が殺され、その家族が殺され、家が、街が、その血に染められようとも、私の考えは変わらなかった」
マリナヴァルはゆっくりと歩いているはずなのに、ネルはその距離を広げることができなかった。それどころかどんどん詰められていく。攻撃を仕掛けようにも、先ほどの攻防がちらつく。まだマリナヴァルに攻撃を届かせる具体的なイメージが湧かない。
試行回数を増やそうにも、充分に回数を積み重ねることはできない。今までは自然に、当たり前のように行っていた再生だが、かなりのソウルを消費していることを、ここに来てようやく知った。再生はするものの、命は削られている。試行回数を増やすとなれば、それに加えて攻撃での消費もある。再生ほどではないが、攻撃の仕方によっては同等のソウルを失う。
必要なのは思考回数。いかに想像し、想定し、相手の行動を読み切るかが重要だ。そのために求められるのは、マリナヴァルの情報だ。相手を知らなければ、行動を予測できない。
「だったらどうして」
「私が『賢者』の器ではなかったからだ。積み重なる死を受け入れられるほど、強い生物ではなかった。だから終わらせにここに来たんだよ。たとえこの魂が罪の底に沈もうとも、私は“人と人”との争いを終わらせる」
油断はしていなかった。だが、一瞬でネルは串刺しになっていた。人間としての死が訪れ、化物としての再生が始まる。そして力がまた消費された。
痛みや苦しみを味わいながらも、ネルは思考を重ねていく。
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