第16話 堕ちた光
蝶番の擦れる音から続いた木製の扉が閉まる音を聞いたと同時に、ネルの意識は覚醒した。視界の色合いが見知ったものになっている。どうやら本当に『街の夢』から抜け出せたようだ。
目が覚めた場所は、噴水広場だった。周囲を見回して、その理由はわかった。あの力の衝突時にネルはここまで吹き飛ばされたのだ。だから『街の夢』でもこの場所にいた。街の様子は記憶のものとは異なり、衝撃による破壊の爪痕で上塗りされている。
正面にある噴水はそこを知らなければ噴水だとわからないほどに崩壊し、その左側にあったミリアと出会った馬車の箱も姿かたちがない。しかし右側に目を移せば、それらしき残骸が見受けられた。
左側から大きな力の波が押し寄せ、すべてを右側に押しやった。堤防の役割だったはずの背の高い建物も無残に破壊し尽くされている。どこも一階部分しか残っていない。仮に二階部分があるとしても、それは柱だけだ。
その波の発生源――原因はまだ活動している。
だが、ネルは向かおうとは思わなかった。ミリアの仇であるハインリヒを倒したことで、最たる目的を果たしたことで、他のことに対する熱意が消えてしまっていたのだ。黒騎士と闘うのも、ハインリヒが呼びこむためだった。今更闘う必要もない。
目的の消失による無気力感。
緊張の糸が解けたことで、ネルの思考は沈んでいく。
この世界はネルが見ている夢だ。本来なら死んで無になっているはずなのに、こうして夢を見ている。あるいは無になるまでの間に見ているものなのかもしれない。いずれにせよ、この世界に足を踏み入れた理由を、ネルは「後悔」だとしていた。
後悔を断ち切るために、自らが作り上げたのだと。
そのためにミリアが存在し、ネルは深淵術という力を持った。自分だけでなく、誰かをも守れる力を得た。
だが、そうできなかった。
ここで一つの疑問が滲み出る。ネルは『街の夢』から抜け出すときに、理想に到達することがそうすることができる方法だと自然と言っていた。だとするならば、ミリアを失ったネルは理想へは到達できない。
夢から覚めることはない?
しかし覚めない夢もないのもまた事実だ。
故にネルが至った答えは、なにかを成し遂げなければならない、ということだ。ネルが知らない、ネルが気付いていない理想があるのだ。確信も、自覚もできないそれを見つけなければ、ネルは永遠にこの場所にいることになる。
この“不快な世界”にいつまでも。
結局、同じことを繰り返しただけだ。大事な人を失った。それどころか、仇を討つ無意味さにも気付いてしまった。晴れた想いは少しだけで、残りは空虚と化した。
――この世界に復讐しなさい。
暗闇をさまよう者を救う光のように浮かび上がった言葉。余計なことを考えるな。その光こそが目指すものだ。終着点、到達点だ。まるで天啓のごとく導きを与えるその言葉は、ネルの心に浸透すると、じんわりと思考の闇に消えていった。
言葉の消えた余韻もなく、ネルは引き付けられるように左上部に顔を向けた。あるいは引き付けた“それ”が思考を中断させたのかもしれない。
「『光剣』」
剥き出しになった柱の先端に、身を屈めて覗き込む体勢で『光剣』はいた。さながら獲物の様子を窺う肉食動物のようでもあった。
復讐の一段階目として、まずは黒騎士を排除する。ノワルゲートもブランドアも求めるものだけに、失えば双方に傷を負わせることができるはずだ。ブランドアは戦力と可能性を、ブランドアは誇りと象徴を失う。最初の一歩としてはこれ以上ない標的。
ネルの殺意に反応したのか、『光剣』――黒騎士は天に吠える。瘴気が撒き散らされ、柱から飛び降りるその様子はまるで焼け焦げた隕石を見ているかのようだった。ネルと同様に黒騎士もまたあのときとは違う。
それを証明するように、先に攻撃をしたのはネルだった。着地と同時に向かってきた黒騎士を伸ばした触手で薙ぎ払った。ただ黒騎士の動きに合わせていたあのときとは違い、今度は明確に黒騎士を地面に転がした。
その勢いを黒騎士は地面を掴むことで殺し、すぐに臨戦態勢に戻る準備をする。だが、そのときにはすでにネルは彼に飛びかかっていた。触手を鞭のように叩きつけ、間髪入れずに黒く染まった左拳を打ち込む。
しかしさすがの反応を黒騎士は見せ、どちらも両腕でしっかりと防がれる。体勢を崩そうと力を込めていく。中身が飛び出すかのように、瘴気が濃く広がった。
(これは……!)
もうひと押しという感覚の中に、たしかな違和感を抱いた。それを無視すべきか、なにかの兆候だと危惧すべきかの判断に揺らいだ刹那、ネルの拳を受け止めていた黒騎士の腕の力が一気に高まり、弾き返されてしまう。弾く中で彼の持つ剣がついでと言わんばかりにネルの腕を狙ってきたが、触手を剣刃に宛がうことでその難を逃れた。しかし違和感はさらに濃くなる。
触手を使い、上手く着地した。けれどもそのときにはすでに黒騎士は間合いを詰めていた。空を舐め穿つ突きを、身を屈めて避け、続けてそのまま振り下ろされた剣を右側に飛び込むようにして回避した。石畳を砕き割ったその大剣を、黒騎士は地面をなぞり抉るようにして振り上げた。
鋭く、重く、そして滑らか。
獣のように野生的でありながらも、人間のように洗練された動き。
そしてどれにも属さない「人外」だからこそできる無茶な駆動。
繋がり連鎖する猛攻をネルが対応できているのは、やはり同じ「人外」であるからに他ならない。『核』にさえ届かなければ、他の部位は捨てても構わない。その心構えと身体能力があるからこそ、太いようで細い綱を渡り歩けている。
不死に近いからこそその綱は太いように思える。しかしそれは細い。目に見えている以上に細い。原因は抱いた違和感の正体だ。黒騎士の傍に張り付き、幾度となく剣に触れたことで気付いた。
黒騎士はソウルを吸い上げている。
違和感を抱いたのは、常に大剣に触れたときだ。攻撃を腕で防がれたときも、柄頭と接触していた。刃だけではなく、剣そのものに触れるだけでその効果を発揮されてしまう。ただ相手の命を奪うだけでなく、その剣は『力』をも奪うということだ。攻撃を与えれば与えるほど、さらに力が増すこともありうる。
そしてもう一つ問題なのは、対象からだけでなく『どこか』からもソウルを集め吸収することができるということだ。『街の夢』に到達する前に見た、あの行動を黒騎士は隙を見ては加えてくる。
阻止すべく近づくも、待ち受けるのは大剣だ。
(まずはその剣を落とす!)
持ち替えていることから、手とグリップが融合していていないことがわかる。弾き飛ばすことができるだろう。長期戦になれば不利になるのは圧倒的にネルだ。ネルが不死性のために、黒騎士はネルから継続的にソウルを得ることができる。
ソウルを削られながらも、触手と左腕を使って執拗に攻める。単純に正面からの戦闘では、黒騎士には絶対勝てない。できるだけ手数を増やしつつ、俊敏に大きく動き回り、なにより狙いに気付かせない。黒騎士の剣の振りが大きければ大きいほどネルにもその軌道は読みやすくなる。
そして隙も見つけやすい。
振り上げからの振り下ろしへの切り替わり。その一瞬の手前。まだ上がり切っていないその手に、ネルは攻撃を打ち込む。下から突き上げられたことで身体が開き、さらに一瞬の時間ができ、その隙に身体を回転させ再び触手で剣を握る手を狙った。ハインリヒを切断したときのように、しかしあのときよりも小振りの刃が振り上げられ、黒騎士の指を切断し、拘束の外れた剣を蹴り上げた。
無論、そこで終わりじゃない。一呼吸置くのはまだ早い。剣を失っても、黒騎士が弱体化したといっても、それは安堵できるレベルじゃない。反撃を察知し、身を翻して回避する。黒騎士左手でネルを掴もうとしていたようだ。
(まず――)
さらに、ネルの回避も予測していたようで、後退したはずのネルと黒騎士の間合いは変わっていなかった。後退に合わせ、前進してきたのだ。指の再生の始まった右手がすでに振り上げられていた。
反射的に触手で黒騎士を横から吹き飛ばした。しまった、と思ったのは、黒騎士との距離が開き切ってからだった。押しこまれた残骸に直撃し、砂埃が舞う。距離を与えるだけでなく、死角まで作り出してしまうとは悪手極まりない。強化を妨げるのが遅れてしまう。
ネルはすぐに距離を詰めようとした。しかし逆にそれを妨げられてしまう。灰色の靄から弾けるように飛び出てきた二つの物体が、ネルに直撃したのだ。それは馬車の車輪だった。予想外のことに両腕で防御をするが、その衝撃は凄まじく、腕の骨が粉砕されるどころか、さらに距離を開いてしまう。
晴れる砂埃の奥で、黒騎士が強化しているのを見た。この世界があるかぎり、彼は進化し続けるのだろう。ソウルという力があるかぎり際限なく。なにを目指しているのか。なにを成そうとしているのか。ネルはそれを知っている。あの雄叫びの中にあるものを、込められたものを知っている。
だからこそ、ネルは彼をここで倒す。同じ目的であるからこそ、同じ存在であるからこそ、同じ世界にいることを許せないのだ。
すべてを使ってでも、目の前の同志を殺し切る。
ネルは触手を伸ばして掴み、身体を反転させた。人外としての動きも能力も充分に馴染んできていた。
強化をした黒騎士の手には、ソウルでできた大剣が握られていた。溢れんばかりの力を凝縮してカタチを成したそれは、黒曜石のような神秘的な艶やかさを見せている。突きの構えをした黒騎士が、地を蹴って飛び出した。
ソウルの剣に気を取られていたネルは構えるのが一瞬遅れる。
遅れて前に出された左手ごと、ソウルの剣はネルの身体を貫いた。するりと身体を通過した刃の冷たさを、はっきりと感じ取った。痛みを認識したのは、その刃が下部へと移動し始めてからだった。ずず、とまるで肉を撫でるように、骨を愛でるようにゆっくりと斬り進んでいく。
声にならない声をあげたのは最初だけで、ネルはそれを押し殺した。歯を噛み締め、痛みから逃げようとする身体を制御する。黒騎士を見据え、使いものになる右手で侵攻する刃を掴んだ。ネルも知らない『核』の場所に向かっていることが、本能が察知していた。
「これ以上は、やらせない……。僕にはやることがあるんだ……!」
ネルは触手を振るう。黒騎士はソウルを蓄えることで強化されている。ネルの触手をいくら強化したところで、その攻撃はもうほとんど通らないだろう。しかしだからといってその僅かな可能性にかけるのではない。
無意味な攻撃はしない。
通らないのならば通せばいい。
膨大なソウルで強化されているのならそれを“奪って”しまえばいい。
黒騎士は悲鳴にも似た叫びを上げる。振った触手が咥えていたのは、彼自身が所持していたソウルを吸う大剣だ。ソウルを奪うことで弱体化させつつ、それにより強化される刃が徐々に黒騎士の鎧にその身を沈めていく。
「――終わりだ!」
大きく斜めに刻まれた傷から、吐き出される黒い瘴気。それは彼の源であるソウルであり、なにより彼自身でもある。鎧の内側にあった魂が、ようやく解放されたのだ。
「おやすみ、英雄」
彼を――『光剣』を蝕んでいたソウルは、ネルの持つ大剣に吸収され、その色が落ちた鎧は光となって消えていった。まるでその役目を終えたかのように、大剣もまた消えていく。主のもとへと向かったのだろう、とネルは漠然と思った。
まるで夢から覚めたように、そこには静けさが戻っていた。長いようで短い、命を削り合った濃い時間を過ごした。
そしてそれはまた、新しいかたちとなって訪れる。
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