第13話 それぞれの導き
森の中を進むハインリヒは、目当ての木を見つけると、それに手を触れた。掌に熱を感じた途端、目の前にあった木々が消え、ブランドアの拠点が現れた。森の中に拠点があったのではない。ハインリヒが拠点まで”飛ばされた”のだ。
(いつ使っても、頭おかしいわ)
この神焔法をかたちにしたのはハインリヒの師匠であるマリナヴァル・ルスケニスという男だ。神焔法を使う者すべての頂点に立つ男。ブランドアではマリナヴァルを「賢者」と崇めている。
ハインリヒがミリアと呼ばれた少女を「転移」させた神焔法も、マリナヴァルの神焔法を応用したものだ。
目的のテントに入ると、水盆を覗く神焔法使いが一人だけいた。彼はハインリヒに気付き立ち上がろうとしたが、ハインリヒは手でそれを制した。
「見つかったって?」
「はい、見つかりました」
直径九十センチほどの水盆を覗く。そこにはたしかに”それ”は映し出されていた。ブランドアの「兵士」どころか「騎士」までもが成す術もなく斬り倒されている。その様子はまるで獣だ。暴れるだけ暴れて、雄叫びを上げる。
「『光剣』がここまで変わるとはな」
かつての面影はそこにはない。英雄として謳われ、多くのノワルゲートの人間を屠ってきた勇ましき姿は、深い闇に飲まれて黒に染まってしまった。その称号の由来となった『勝利の光をもたらす剣』も瘴気しか出していない。
だからこそ『救い』を与えなければ。
そして彼らに、彼の国に『粛清』と『浄化』を。
※
「ずいぶん可愛らしい姿になったものね」
再生が行われ、身体も衣服もほとんどもとに戻ったとき、仰向けに倒れていたネルの視界に見下ろすアンリの姿が映った。黒煙の立ち昇る空よりも蒼い瞳に、魂が吸い込まれてしまいそうだった。
「アンリ……。僕、生きてるの?」
「そうね。じゃなかったら、わたしと話せてないわ」
生きている――そう実感したとき、それと同時にネルに押し寄せてきた「現実」があった。あの瞬間が、あの光景が、頭の中で何度もフラッシュバックし始める。
絶え間なく繰り返されるその中に「彼女」との記憶が混在していることに気付いた。結局お前にはなにも守れない。そう言われているようだった。それは他の誰でもない自分自身に。
ドロドロと渦巻く感情が、いつからか開いていた穴に流れ込んでいく。それがどこに向かっているのかはわからない。どこに蓄積され、消えてなくなるのか、いつまで残り続けるのかも。
わかるのは、心が空っぽになっていくことだけだ。
なにも考えたくない。なにも思いたくない。
死にたい。
そう呟こうとしたとき、アンリの顔が近づいていることに気付いた。あのときと――ウラシフで目覚めたときと同じ光景だ。
「目を閉じて。深呼吸をして。心を沈ませて」
どこか優しさと温もりのある声色でアンリはゆっくりとした調子でそう言った。周りは燃え上がっているはずなのに、ネルが感じたのは懐かしい匂いだった。
空っぽになっていたはずの心に、なにかが灯る。
「それから、まずはわたしに話して。なにを見て、なにを感じて、なにを経験したのかを」
アンリに言われたとおりのことをし、ネルは小屋からアンリに発見されるまでのことをすべて話した。一切の偽りはない。隠したこともない。なにもかもをありのままに。
トリルのことも、ミリアのことも。
アンリはそれを黙って聞き、その間ネルと視線を合わせ続けた。蒼い瞳に吸い込まれていくのは言葉もだった。
「僕がミリアの傍から離れたから……」
なくした感情を取り戻すように、忘れていた感情を呼び起こすように、後悔の奔流が心を震わせる。無意識に塞き止めていたものが壊れていく。ミリアを失った悲しみだけじゃない。トリルのことも。
後悔は涙となって、外にさえ現れた。胸が締め付けられ、圧迫されて破裂しそうだった。涙はそれを防ぐために流れているような気がした。
アンリは「関係ないわ」と一蹴した。
「あの子はそういう運命にいたの。本来はウラシフで終わる命だった。あなたがいたから、それがずれていた――ただそれだけのことよ」
ナイフの刃のような冷たい言葉に、ネルは思いを吐き出そうとした。だが、その前に、
「助けなければよかった?」
と見透かしたかのようにアンリは言った。吐き出そうとした言葉に口を塞がれ、声が喉で詰まった。
「あのとき助けなければ、期待を、夢を抱かせることがなかったと思ったんでしょう? でもね、ネル。その後悔は、あなただけで決められるわけじゃないわ。それはあなたの主観でしかない。ミリアがどう思ってたかは、あなたにはわからない」
「後悔は僕だけで決められるわけじゃない……」
繰り返したネルに、アンリは頷いた。
「それに、あの子はあなたとの時間を楽しんでいたと思うわ。だから、なかったことにしたいなんて思ってほしくないはずよ」
冷たく抑揚のない声。しかしだからこそなのだろう。ネルの心に沁みわたり、絡み淀んだ感情が解かれていく。その奥になにかを見つけた気がした。長い間奥で眠っていたそれは、今も色あせることなく輝いている。
まるでネルを急かすように。
「ねえ、ネル。あなたはどうしたい?」
「どうしたい?」
思わず聞き返してしまう。それは直前とは裏腹に、言葉に溢れんばかりの優しさが込められていたからだ。ネルを気遣うような、そしてアンリが不安がっているような気持ちもそこから感じられた。
おそらく普段のネルなら気付けなかっただろう。それほどに彼女の奥にひっそりと身を潜めていたものだと思えた。
「そう。このまま後悔して泣き続けたい? それだけで、あなたは満足なの?」
「満足なんて、できないよ」
できるはずがない。短い付き合いだったが、ミリアもトリルもネルにとって大事な人だった。この世界でネルが人間らしくいられるトリル、この世界で自分を保つための主柱だったミリア。
二人を失って、ただ悲しむだけで満足なんかできない。
それで、終わっていいことじゃない。
地面を引っ掻き、その拳を強く握る。
「今、手の中にあるもの、それがネルの忘れていたものよ」
それが、あなたの「本質」。
そう言われて、ネルは手の中にあるものを指先で確かめた。掴んだ砂が少しあるだけだ。それは強い熱を持ちながら、どこか冷たさが入り混じっていた。頭の中に浮かんだのは、視線の先にあるアンリの蒼い瞳だった。
「僕の本質……?」
「それは『怒り』よ」
「怒、り……?」
どうしようもなく無縁なものに、ネルは困惑を隠せなかった。思い出すかぎりでは、ネルが怒りをあらわにしたことは一度もない。
「無意識的に心の奥に沈ませる生き方をしてきた。だからネルは気付けないの。もっと自分を見なさい。他人の顔色ばかり気にしないで。もっと自分を出しなさい。他人の評価を気にしないで」
ああそうか、とネルは気付いた。
怒ったことがないのではない。怒りを覚えても、それを静めてきたのだ。怒りとは他者を傷つけ、怯えさせるもので、それが表に出てしまえば、周りとの調和が崩れてしまうと危惧した。関係性に亀裂が入れば、その綻びはどこまで広がっていくかわからない。それを恐れた。
だから「仮面」をつけた。それは真顔だったかもしれない。あるいは笑みを浮かべたものだったかもしれない。怒りを悟られないように吐き出した言葉はどれも偽りだったはずだ。
それは深く根付き、無意識にしてしまうほどに繰り返された。
「こんな僕でも怒れるのかな」
「できるわ。あなたはいつだって自分に怒りをぶつけてきた。それが『後悔』というかたちになっているだけ。それを外側に向ければいい。もっと憎んで、恨んで、諸悪の根源を断ちなさい」
その力は、もうすでに持っている。
そのための力を、ネルは振るってきた。
「この世界に復讐しなさい」
手の中にあるもの。
その正体は人間らしい感情だ。熱さは大切なものを奪われた悲しみ、冷たさは報復を切望する怒り。やられたらやり返す。同じ苦しみを、それ以上の痛みを、果てのない絶望を焼き付けたい。
それは本来抑え込むべき感情だが、ここでは――この世界では関係ない。人間らしい原動力で突き進む化物であるネルには関係ない。
ネルは身体を起こし、そのまま立ち上がり振り返る。アンリが見上げていた。
「僕は、あいつらを許さない」
「ハインリヒは『英雄』級の神焔法使いよ。ノワルゲートで要注意人物、最優先排除対象の一人でもあるわ。それでも?」
「それでも、やる」
もうミリアを守ることはできない。つまりネルの目的はもうないのだ。ならば新しい目的を立て、それを達成させる。そうしなければきっと、ネルは自分を殺してしまうだろう。自分を許せなくなり、自らの命を断ってしまう。
後悔の末の自決。
もしかしたら、それもいいのかもしれない。だが、それではいけない。それではミリアを殺したあの男が生きたままだ。それは許せない。彼の言う『救済』を、彼自身が受けるべきだ。
たとえそれで悲しみと怒りが消えなくとも。
「覚悟と決意があるのなら大丈夫ね」アンリは立ち上がった。「ハインリヒが向かった先はわかっているわ」
「え、どうして?」
「『見つかった』って言っていたんでしょう? それならハインリヒが向かう場所――求める相手が誰かは見当がつく」
「それは誰?」
「『光剣』――あなたがウラシフで戦った鎧の男よ。ブランドアは『英雄』を取り戻そうと躍起になっているの」
ネルは黒騎士のこと、アンリの言葉を思い出していた。心の強い者が廃獣になったのだと言っていた。英雄ならば心の強さは常人のそれではないだろう。しかしまさかブランドアの英雄だったとは。
「アンリが廃獣にしたの?」
「結果から言えばそうね。あれはわたしの『実験体』なの。だからこっちとしても渡すわけにはいかない。『光剣』のもとに向かえばハインリヒに必ず出会えるでしょうし、『光剣』を手元に置けば誘い込むことができる」
アンリの横に、楕円形の穴が現れる。高さは二メートルほどで、その黒の深みはどこにでも繋がっていそうで、どこにも繋がっていなさそうでもあった。
だが、ネルにはその黒は前者だった。どこに繋がっているのかが問題ではない。そこを進めば、前に行ける。ハインリヒに出会える。それだけで充分だった。
「行きましょうか」
ネルは力強く頷いた。
もうここには戻ることはないだろう。だからその黒に触れる瞬間に、彼女に――トリルに言葉をかけた。
(ありがとう、さようなら)
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