第14話 街の夢
穴を抜けると、そこは見覚えのある場所だった。陰鬱な空気が漂うそこは、ネルが目を覚ました街――ウラシフだ。ウラシフのどこかではなく、抜けた地点がまさに始まりの地点だ。
建物を眺めていると、あとから来たアンリに声をかけられ、ネルは振り返った。
「これを渡しておくわ」
そう言ってアンリが差し出した手には、銀色のペンダントがあった。少し煤汚れているそれを、ネルはどこかで見たような気がした。
「これを僕に?」
「それはミリアのものよ」
「――っ、ミリアの?」
「わたしがあなたを見つけたとき、傍に落ちていたのよ。そのペンダントだけが運良く残ったのね」
ネルはペンダントを手に取った。なにも残っていないと思っていたためだろうか。そのペンダントをミリアのように愛しく思ってしまう。戒めの証として、ネルはそれを首から下げた。本来の重さとは異なる重みを感じた。
「よく聞いてね、ネル」
意識をアンリに向け耳を傾ける準備をする。しかし意識はすぐに彼女の手に移った。彼女の手から「黒い液体」が溢れ出てきていた。地面に流れ落ちたそれは溜まり広がることなく、あるものを描いた。
(地図だ)
黒い液体がインクのように地図を表現した。線は凹凸のある弓形状で、弧の中には小さな円がいくつもあり、ウラシフとリバスークの名前だけが添えられていた。おそらくネルが他の場所を知らないためだろう。
ウラシフの上には、球体と逆さまの円錐が人の形を模すように浮いていた。
「これはわたしたちがいるノワルゲートの東部。現在わたしたちがいるのはウラシフ。見ればわかるわね?」
「うん」ネルは地図に目を落としたまま頷いた。
「現状はこう」
一瞬で地図の半分が黒く染め上げられた。ウラシフの円だけが取り残されて、ぽっかりと穴を開けている。
「ブランドアが確認された地点までを黒くしたわ」
「ここまで侵攻されてるんだ……。ノワルゲートはなにもしてないの?」
「できないと言った方が正しいわね。彼らの侵攻を止めるには『廃獣化』を促す神焔法をどうにかしなければならないわ」
「そうか。こっちの深淵術使いは下手に動けないんだ」
「原因がわかっていも、防ぐ方法がわからない。かといって東部ごと消し去ってもいいのでしょうけど、それを向こうが考慮していないはずがない。なにかしらの対策があっても不思議じゃない」
「『廃獣化』が妨げになってるんだ」
廃獣になれば元に戻ることはできない。本来なら自己管理さえできていれば防げる悪夢が、敵によって、しかも対処することもできずに引き起こされるのだから、たとえ数で勝っていても動くことはできない。ましてやアンリの言うように、ブランドアの侵攻があまりにも堂々としているため、まだ奥の手があるように思える。
たとえば大規模な深淵術を使った際に発動する『廃獣化』の神焔法。あくまでネルの妄想だが、ノワルゲートの出方を呼んでいるのなら、そういった反撃をもちろん用意しているはずだ。
『廃獣化』に対する恐れが、『廃獣化』を引き起こされる恐怖が、ノワルゲートを容赦なく後手に回している。
「どうするつもりなの?」ネルは顔を上げて、アンリを見た。
「答えは単純。『廃獣化』が怖いのなら『廃獣化』にならない者が前線で戦えばいい」
「それってつまり、僕とノノリルと――」
「あなたたち二人だけよ」
「え、はあ?」
自分でも驚くほど情けない声が出た。初めて明確にアンリのことを――その言葉を馬鹿にしていた。ブランドアの精鋭が攻めてきているのに、こっちは二人、アンリを含めても三人しかいない。質がどうこうの前に、絶望的な数の差だ。勝てるわけがない。
しかしアンリの表情に、瞳に揺らぎはない。それがネルの中で揺れた心をぴしゃりと正した。
「なにか策はあるの?」
「こちらの勝率を上げる手段として有効なのは『光剣』の手綱を握ること。暴走状態でなく、傀儡(かいらい)に戻せたのなら『廃獣化』にならない駒が一つ増える」
「そうするために、僕はなにをしたらいい?」
「『光剣』のみと対峙したなら『光剣』と、ハインリヒがいたのならハインリヒと戦いなさい」
「わかった」
個人的な怒りに大義が加わったことで感情がより洗練されたとき、ネルの背後でなにかが潰れるような音がした。その音は初めて聞く音だったが、音の記憶が紡ぎ出したのは、相当な重量を持ったものが落下して地面に叩きつけられ、その衝撃で水っぽい柔らかいものが飛び散ったのだろうという推測だった。
数瞬の思考後に、ネルは勢いよく振り返った。
銀色と赤色が冷たい地面の上で蠢いていた。よく見れば赤色を纏った銀色の蛆のようなものが大量にいることがわかる。さらに注視することで、それらが蛇であり、その中心に仰向けに倒れる誰かの姿があった。
それが誰かは、よく見ずともわかる。
身体を起こした彼女は、ネルたちに気付いて振り向いた。その顔は左側上部が削り取られたようになくなっていた。
「やあ後輩くん、元気?」
そう言った次の瞬間、彼女はまた地面に叩きつけられた。今度は落下したからではなく、落下してきたものに潰されたからだ。それはゆっくりと剣を引き抜くと、空に向かって大きく吠えた。空気や大地を通して、その振動が伝わってくる。振動は身体の内側からも発生していた。それだと認識してから緊張感が一気に高まっていた。まさかこんなにも早く出くわすと思っていなかったからだ。
『光剣』。
その雰囲気は以前に出会ったときとはまるで違う。あのときは「人の鎧を纏った獣」といった印象だったが、今はまさしく「人」である。動きの中に凛とした品を感じ、生前の――『廃獣化』する前の彼が垣間見えるようだった。だが、芯にある人間性を覆うように、獣のような暴力的な気迫が憚ることなく放たれている。
しかし現れたのは彼だけではなかった。
まるで雄叫びに呼応するように、右奥の建物が爆発した。水のたっぷり入った容器の側面が壊れて内容物が一気に溢れ出すように、瓦礫や粉塵が横に大きく広がった。
黒騎士が振り向いた先、ネルの正面に、その男は悠然と現れた。黒騎士に目を向け、視線はその奥にいるネルに向けられた。顔に驚きの表情が浮かんだ。
「おいおい、お前は殺したはずだろうが。どうしてここにいる」
そう言って、ハインリヒは身体の前で掌を上に向けた。その手の中に小さな太陽のような赤い光球が発生する。たとえなんの力も持たない常人でも理解できただろう。光球に込められた尋常ないエネルギーの密度を。
そして常人ではない者たちであるネルたちはそれぞれ行動を起こしていた。
黒騎士が再び天に向かって悲痛の叫びを上げると、黒い瘴気が周囲から発生し、黒騎士に収束していった。光球と同様に力が漲っていく。
黒騎士の消滅、および自分の身を守るために、ネルは触手を生やした。鋏のように大きく開かれた口の中で黒球が膨らむ。
三つの力の塊が衝突したのは、銀色の蛇が飛び掛かった瞬間だった。大量の銀色の蛇がハインリヒに飛びかかり、ハインリヒが応戦するように光球を放つ。合わせて黒騎士が溜めこんだ力を解放し、ネルも力を撃ち出した。
深淵術と神焔法。
ソウルとマナ。
衝突が起き、衝撃が発生する。大きな力のうねりを感じ、次の瞬間には身体が捩じ切れてしまうのではないかとさえ思えた。外側も、内側も、肉も、骨も、内臓も、その心でさえ力の渦に飲み込まれてしまうのではないかと。
だが、そうではなかった。
そういうふうにはならなかった。
なぜならネルは、次の瞬間には「別の場所」に立っていた。唐突な出来事に思考が追い付かず、混乱と困惑に苛まれる。
「どういうこと……」
ネルを戸惑わせているのは、気付いたら「別の場所」にいたからもそうだが、目の前の光景がさらに信じられないものだったからだ。なにも起きていない街。人々が歩き、馬車が走り、噴水から水が出ている。
ここはウラシフだ。
なにも――『廃獣化』の起きていないウラシフ。
しかしどこか不自然だった。街の人たちの表情や声、生活音や自然音、肌に感じる空気も鮮明なのに、鮮明なはずなのにどこか「淡い」のだ。
「これは『街の夢』だ」
その声に振り返ると、ハインリヒが不快そうな表情でネルを見やっていた。
「人の想いや祈り、願いや理想が、街の意思となり、街に夢を見せる。御伽話だと思っていたが、まさか本当にあるとはな」
人々の想いで形勢されているのだとしたら、もしかしたらどこかにミリアもいるのかもしれない。ミリアの見ていた夢がここにあるのかもしれない。
しかしもう夢しか残っていない。想い、祈り、願い、理想を抱いた者たちはウラシフにはもういないのだ。
「一つ聞きたいことがある。いや、答えろ」
一呼吸の間も置くことなく、その言葉のとおりに有無を言わさない圧を込めた声でハインリヒは言う。
「なぜ生きている。お前はあのとき殺したはずだ。原形残さず、爆炎で焼き尽くしたはずなのに、なぜだ」
そんなことか、とネルは拍子抜けした。
だから間髪入れることなく答えた。
「あんたを殺すためだよ」
「なに?」
「僕は今、あんたを殺すためだけに生きている――ここにいる」
心を溶かそうとしていた炎のような感情は、今は完全にナイフの刃のように冷たくなっていた。決意と覚悟がなければ、とっくに動いていただろう。ただ怒りに任せて、力を振るっていただろう。それでは勝てないとわかっていながらも、無謀にもそうしていたはずだ。
落ち着いている。周りがよく見えている。
感情を制御できている。心は死んでいない。
ハインリヒと戦う準備はこれ以上なくできていた。
ネルの静かな殺意を感じたのか、あるいは求める答えは得られないと察したのか、ハインリヒは渇いた笑いを見せた。
「だったら、また殺すまでだ」
強い敵意と殺意を感じ、ネルは両腕を顔の前に構えて後退した。自分のいた場所に光の粒と歪みが見えたあと、大きな爆発が起きた。ネルの身体は爆風に乗って、勢いよく後方に飛ばされる。倒れそうになったが、触手で地面と繋がり上手く勢い殺して体勢を立て直した。
しかし息つく暇もなく、次の気配を感じる。まるで星が落ちてきたかのような光景が目の前に広がっていた。宙にも、地面にも、光の粒があり、黒煙を背景にしたそれは本当に綺麗に見えた。
ネルは触手を振るい、近くにあったそれを喰わせた。そして左腕で引き千切り、新たな触手を生やす。
爆発の連鎖が『街の夢』を蹂躙した。そこにいた者たちを、そこにあった日常を容赦なくその炎と風で薙ぎ壊していく。現実で起きていたことが、夢でも起きている。夢でも彼らは殺されてしまった。
夢の中に現れた不純物によって。
被害を最小限に考えるのなら、短期決戦が望ましい。もとよりネルはそのつもりだった。ハインリヒの神焔法は強力だ。その射程範囲の広さ、攻撃力の高さ、そして防御も徹底している。ほとんど隙がないと言っていい。距離をとって戦うのは悪手。だからといって容易に近づける相手でもない。
通常の思考ならば。
常人の身体ならば。
ネルは知っている。自分の身体が化物じみていることを。
ネルは知ってしまった。簡単には死ねないことを。
だから前に出た。爆炎の中を構わず突き進む。左腕と触手で爆発から身を守りつつ、後退するのを防いだ。たとえ左腕が失われようとも触手で、触手が燃え尽きようとも左腕で、そうやってなるべく隙を作らず、再生の時間を稼いだ。
「どこまでもお前たちは……」
爆音の中、たしかにハインリヒの声がネルに届いた。集中力を高めているおかげもあったのだろう。
「お前たちは人間を侮辱するのか!」
まるでその怒りを表すように、街全体が――視界いっぱいが白い光に包まれた。白はやがて赤を生み、黒に継がれる。行き場のない衝撃がぶつかり合い、結合し、反発し、不規則なうねりの衝撃波がさらに街を破壊し尽くしていく。
足を踏み込んでも身体が浮きそうになり、触手で地面を掴んでも耐えることはできずに、ネルは吹き飛ばされる。まるで人形の入った箱が振り回されているかのように、ネルの身体は縦横無尽に宙を泳いだ。上昇、下降、左右へと揺さぶられ、最後には地面に叩きつけられた。
声なのか、果たして「中のもの」が潰れた音なのかわからない音が口から漏れ出た。全身に走る痛みは一瞬で、すぐにそれを認識しなくなった。
石畳と黒煙の視界の中に、ハインリヒが映り込む。
「なあおい。お前たちはなにを目指してるんだ」
知るか、とネルは答えられなかった。声が出ない。負傷を度重ねてきたことで再生の感覚を掴んできたが、それでもノノリルのような速度には至らない。
「『廃獣化』という罰を知りながらも、なぜ魂を穢してまで異端の力を得る」
起き上がるための両腕が爆発により引き千切られる。
そしてまた再生が始まる。
「おれたち人間は神に作られた存在だ。その身体も、魂も。だが、お前たちは『異端』を取り込み『異形』となる。その行為が愚かだと、それが破滅へ向かうとわからないのか?」
再生能力がなければ、すでにネルは死滅していただろう。それほどにハインリヒの攻撃は怒涛で、その怒りは留まることを知らない。
彼の怒りに触れたことで、ブランドアという国を少し知ることができた。ブランドアの人間は《神》という存在を信じている。多神教なのか一神教なのかは判然としないが、どちらにせよ彼らの心に深く根付いていることに変わりない。
神を崇め称え、感謝と畏怖の念を抱いている。
その信仰心を、ネルは理解できない。生きていた中で、その存在を認めたことが一度たりともないからだ。奉られている場所に訪れたとしても、それは形式的に赴いているだけで信仰心などない。
だからハインリヒの激情を本当に理解できない。言っていることはわかる。ただそれだけだ。
「お前の『不死性』を見て、ついに来るところまで来たと思った。死もまた神に与えられたもの。それを克服することは、神になろうとしていることだ」
おこがましい、とハインリヒの表情が歪む。瞳の色に憎悪が増し、爆発の勢いが大きく、激しくなる。
ハインリヒの『爆発』の神焔法は『怒り』を表しているのだろう。その苛烈さ、熾烈さがそれを物語っている。それは静まることを知らない暴風のようだった。容赦なく周囲のものを薙ぎ倒していく。そして倒したあとも吹き飛ばす。通過したあとは塵一つ残さない。
ここが夢でなければ、ウラシフはどうなっていたか。石畳の地面は抉られ、噴水の造形は跡形もなく、住人は蹂躙されていたかもしれない。
夢の中だからこそ、何事もなく「流れる」。空に浮かぶ雲も、風も、香りも、音も、人も、流れていく。夢が進んでいく。
「そこに至るための犠牲は何人だ。それ以上になるためにあと何人殺す。お前たちのために、おれたちはなぜ犠牲になる必要がある……!」
ネルが受ける熱量と痛みは、まさしくハインリヒたち――ブランドアが受けてきたものなのだろう。ハインリヒの言葉と神焔法で、ネルはその背景に触れていく。
ハインリヒの背後に立つ「彼ら」を見る。
ノワルゲートによって命を奪われた者たちが、蔑むようにネルを見下していた。ハインリヒと同じように「人間」として見ていない。ただの嫌悪と憎悪、恨み辛みの対象であるだけで、害獣や害虫と同じなのだろう。もしかしたらそれ以下の存在として認識されているかもしれない。
ネルはそんな彼らの目が気に入らなかった。ネルの心で静かに燃えていた灯が、彼らの無念の想いがくべられ、少しずつ大きくなっていく。熱を強めていく。
「お前たちが『不死』になることを許すわけにはいかない。幸い、お前はまだ『不死』になりきれてねえみたいだからな。ここでおれが殺す」
今まで受けた中で最大の爆発が起きたとき、同時に、ネルの中の炎も「熱」と「光」を解き放った。
その瞬間、身体は再構築され、ネルの身体は完全な状態を取り戻した。一つの欠損もなく、一つの痛みもない。こと身体においては。
その様子を見ていたハインリヒの権幕がさらに増す。
だが、ネルはそれに屈しない。
「あんたの言いたいことはわかる。こんな身体が人としておかしいってことも、そのために何人もの犠牲を出すのも間違ってる。あんたが――あんたたちが正しいよ」
でも、とネルははっきりと続ける。誰に妨げられることもない、自分だけの言葉を、想いを乗せた言葉をハインリヒに突きつける。
「ミリアを殺した――これは間違いだ」
「なにィ?」
「自分たちだけが犠牲者だと思うなよ。なにもできずに死んだと思うなよ。こっちにもあんたたちの正しさで何人も殺されてるんだ!」
ブランドアによって殺害されたのがどの程度の数なのか、それをここに来たばかりのネルが知るわけがない。だが、声を大にしてはっきり言えるのは、彼らがリバスークおよびウラシフの人間を還らぬ者にしたことだ。
ミリアも、ミリアの両親も。
トリルも、トリルの好きだった村人たちも。
みんな死んだ。
そうしたいと思ったわけじゃない。けれどもネルの身体から触手が生え伸び、それはやがて口から裂け、また新たな枝を伸ばし、やがて片翼のようになった。そうできるとネルは知らなかった。知っていたのは『核』だ。
「僕はあんたたちの正しさを認めるよ」
ハインリヒの『怒り』は――信仰心は本物だ。嘘偽りなく、混じり気のない、純粋なもの。トリルを殺した者たちとは違う。彼らの『正義』は『建前』だ。本心を隠す都合のいい隠れ蓑だった。自己を守る汚い盾だった。純粋さの欠片もない濁り、偽りがネルには堪えられなかった。
だからこそ。
だからこそネルは、ハインリヒに尊敬の念を抱く。決して揺らぐことのない信念、成し遂げようとする意志、自己の怒りが国を守る力ともなっている。そう、ハインリヒはどこまでも自分を貫く。
それはネルが生涯を通してできなかった生き方。
羨ましさもあれば、やはり妬ましさもある。
けれどもやはりそれ以上に尊敬を抱かざるを得ない。
しかしそれすらも、薪としてくべられる。
「だけど許すわけにはいかない。この『怒り』を無視するわけにはいかないんだ!」
「おれたちは一切認めねえ! だから許さねえ!」
その『太陽』が出現したのは、ほんの一瞬の出来事だった。ハインリヒの足もとに展開されていた巨大な魔法陣が急激に縮まると、彼の頭上に直径五メートルほどの光球が浮かんでいた。神焔法は星の力を使う。もしも魔法陣の大きさによって扱えるマナの量が増えるというのなら、これまでの神焔法とは一線を画すものに違いない。
こういうときその後を想像できないものの方が恐ろしいと思いがちだが、ネルは違った。その威力の大きさを“容易”に想像できてしまうことの方がよっぽど恐ろしい。あの光球はこの夢を潰す。そう言い切れるのは、すでに夢が飲み込まれているからだ。光球の密度に空間が引き込まれている。
その眩さ、煌めきに思わず目を背けてしまいそうだが、ネルは光を遮ることをしない、光から逃げない。すべてを無に帰してしまいそうなその『太陽』は、ハインリヒの感情が具現化したものだ。
それに対して、ネルがぶつけるのもやはり偽りなき感情。ハインリヒが極上の『怒り』を示すならば、ネルもまた際限ない『怒り』で立ち向かう。
枝分かれし翼のごとく広げられた触手に感情を――魂を込める。
それをハインリヒは見逃さない。ネルが動きを見せたと同時に、その『太陽』を放った。摩擦抵抗のために初動が遅れるかのように、『太陽』はゆっくりとネルに近づく。大きすぎる力の塊を動かすのはハインリヒといえども至難なのかもしれない。
そう思ったが、すぐに誤りだと気付く。
その『太陽』は徐々に小さくなっていたのだ。内部の力を押さえつけ、しかし内部の力はそれに抗う。圧縮と反発を繰り返し、圧縮が上回っていたがために、目に映る『太陽』の大きさが変わらず、距離感が掴めていなかったのである。
気付いたときには、すでに爆発寸前だった。
ネルの触手には力が込められている。だが、放ったところでネルは勝つことはできない。密度の違いは明らかだ。無闇に攻撃をしても、爆発の衝撃を狂乱させるだけ。『街の夢』に訪れる前の、あの身体が引き裂かれるような奔流に飲まれるだけ。
(それでも!)
逃げるなんて選択はない。ただ爆発を受ける気もない。なにもしないのでは、ネルはなにも果たせない。それならば、その逆をするまで。逃げず、爆発を受けても、胸に秘められなかった『怒り』で、果たすべきことを果たす。
覚悟と決意。
忘れてはいない。
失われたミリアの姿。
刻み込まれている。
この隙を見逃すわけにはいかない――。
すべてを奪ったあの男を――。
瞬間、ネルはハインリヒの横を通り過ぎていた。その過程を認識したのは、結果を見届けたあとだった。食い潰されたように見る影もなくなった『太陽』。両断され崩れ落ちるハインリヒ。
「な――に……」
ネルが無意識にしたのは、やはり触手での攻撃だった。ただし触手に込めた力を放ったのではない。それを『推進力』にして、触手の翼を刃に変えたのだ。
片翼であるためにネルの身体は回転ノコギリのように回った。『太陽』に衝突した触手は、それを喰い潰した。いくつも枝分かれしたことで、その『口』もまた増えていたのだ。ウラシフでそうしたように神焔法を食み、しかし爆発して失われる前に、その触手でハインリヒの身体を斬った。本人ですら認識するのに結果に至る必要があった。ただの人間であるハインリヒがその速度に対応できるわけがない。
散り散りになった『太陽』と、それを含んだ触手が爆発する。小さいながらも威力はあったが、それでなにかが変わるほどのものでもない。広がっていた触手は弾け、焼き爛れ、ネルは背後から殴られたような衝撃を受けるが、踏み止まることができた。触手の口の数が威力を分散し、そのためにその程度になっていたのだろう。
達成感からか、あるいは呆気なさからか、緊張の糸は緩んでいた。身体から力が抜け、なにかを失ったような気さえした。
ネルは地面に崩れたハインリヒを見下ろした。切断面から赤い血を流し、内臓が露わになっているが、まだ息をしている。死んではいない。その目もまだ、ネルに強い眼光を送り続けている。
「ほんの少し前まで、雑魚だっただろうが……。あのときは手を抜いてたっていうのかよ……」
「あのときとは違うよ。僕はあのときただあんたに怯えていた。心がどうしようもなく負けてたんだ。でも今は、どうしてもあんたを殺したかった。ミリアを殺したあんたを生かしておくなんて、僕が許せなかった」
ネルがハインリヒに勝てた要因はもう一つある。それはネルが人間じゃなく、ハインリヒが人間だということだ。『不死』に近い再生能力が、経験と時間をもたらした。より化物に引き上げた。
「はっ」ハインリヒは吐き捨てた。それはすべてを悟ったような表情だった。どこが分岐点だったのかに気付いたのだろう。いや、初めから気付いていて、今それを本当に確信したのだ。
切断面から溢れ流れる赤い液体が、ネルの足もとに及んだ。彼の身体を流れていたもの――それはつまり彼の『正義』だ。ノワルゲートを許さず、神を深く信仰した正義が、流れ出ている。ハインリヒから零れてしまっている。
もしもこれが『現実』ならば受け継がれていただろう。この『正義』に感化され、影響され、心を打たれた者たちが立ち上がったことだろう。
だが、ここは『街の夢』。溢れ出た『正義』が現実に及ぶことはない。
「これから、どうするつもりだ」
擦り切れるような呼吸音とともに、ハインリヒが言った。まだ息があるのはやはり現実とは異なった空間であるからなのかもしれない。
「『街の夢』からどうやって抜け出す気でいる」
ハインリヒが言うとおり、ネルが常に意識しているように、ここは『夢の中』である。しかも意図的に入ったのではない。強大な力のぶつかり合いによって起きた歪みに巻き込まれ、気付けばここにいた。
入り方を知らなければ、当然出方も知らない。ハインリヒはそのことを言っているのだ。。もしかしたら彼はその方法を知っているのかもしれないが、たとえ拷問をしたところで、すでにそれ以上の姿になっているのだから、口を割ることはないだろう。
だが、そんなことをする必要はない。
確証はないが予感はある。その予感を確信している。
「夢から“覚める”方法を、僕は知ってる」
「なに?」
ネルは血を踏み締めながら、ハインリヒに近寄った。彼の目が常にネルの顔を捉えていた。なにをするのか、なにを答えるのかが気になっているのだろう。
立ち止まり、ネルは一度天を仰いだ。灰色よりも灰色らしい空があった。あの先には誰もいない。誰も向かわない。
重い息を吐き出し、ネルは見下ろした。
「理想(ゆめ)に到達することだよ」
夢の先にあるのは現実だ。
その現実で、人はまた夢を見る。
覚めても、叶えても、掴んでもそれは変わらない。
異形の証が同じ夢を見ていた者を喰う。躊躇いも、かける言葉もない。
少しだけ。
ほんの少しだけネルの心は軽くなった。
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