第11話 優しさの代償
心の底から楽しんだネルは、夜が濃くなった頃に酒場から出た。背中には眠るミリアがいた。たくさん遊んで疲れたのだろう。たくさん食べて満足したのだろう。そんなミリアの寝顔を見て、ネルは満足した。
「それじゃあ気をつけてね」トリルが見送ってくれる。
「うん。トリルもほどほどにね」
背中にトリルの視線を受けながら、ネルは小屋に向かった。その途中振り返ってみると、トリルが見えるように大きく手を振っていた。リバスークから出るまで彼女はそこにいたように思えた。
小屋に着き、ミリアをベッドに横たわらせた。
寝顔を見ていると、ネルも眠気に襲われる。
「ごめんね……。なにもできなくて……」
ふいに涙を流しながら、彼女は寝言を呟いた。両親の話をしてために思い出し、彼らの夢を見ているのかもしれない。唐突な別れを想定している子供なんていない。言いたいことも言えないままだっただろうし、別れてしまったからこそ告げたい心もある。
テーブルで寝ようとしたが、ミリアの手がネルの袖を掴んで離さず、身動きがとれなかった。
「もうしばらくこうしてようかな」
そのうち離してくれるだろう、とネルはしばらくベッドに寄り掛かって座っていた。
それは突然、ネルを襲い始めた。冷たいようで熱く、熱いようで冷たいそれは、内臓を掻き乱すように暴れ、心にも浸透してくる。感情という感情が揺さぶられたかと思うと、今度は嘘だったかのように静まる。
言語化が難しい。
ただ一言で言い表すとしたら「気持ち悪い」だ。服の中に虫を入れられたかのような不快感が、ネルに付き纏い続ける。
酷い嘔吐感が込み上がり、ネルは目を覚ました。嫌な汗をかいていることは、なによりすぐに気付いた。身体中に纏わりつく気持ち悪さがはっきりと感じられる。呼吸も少し乱れていて、まずはそれを落ち着かせた。
嫌な夢を見た――とは違う感覚だ。だが目を覚ます直前、彼女の姿を見た気がした。白い仮面をつけたマユを。
べったりと汗でくっついた前髪を掻き上げようとして、まだミリアの手が離されていないことに気付いた。
今度はそっと剥がすことができ、ミリアを起こさないように音を立てないことに注意して歩いた。
「ん?」
テーブルの上に一枚の紙を見つけた。どうやら置手紙のようだ。そこには短く「昨日のとおり」と書いてあった。アンリとノノリルは『廃獣化』の調査に向かったらしい。
手紙を置くと、またネルの中でなにかが蠢(うごめ)いた。酷い嘔吐感とめまいに、身体がふらつく。テーブルに乗せた手で支え、納まるのを待った。
早く外の空気を吸おう。
そうすれば幾分か落ち着くだろうと。
そう思っていた。
外に出たネルは言葉を失い、しばらく身動きがとれなかった。視界に映る光景に脳の処理がついていかず、整理が始まらない。ただ目を見開いて、焼き付けるように見続ける。
赤く燃え上がるリバスークを。
「なんだよ、これ……」
ようやく出せた言葉は、現実を受け入れられていない。
歯車が噛み合ったかのように、唐突にネルの身体は動き始めた。まずは扉を閉めた。微かだが焦げた臭いが風に乗ってきている。中にいるミリアが異変に気付いて起きてしまうからもしれない。そう思ったからだ。
ともかくミリアが起きる前に、気付く前に事態を把握しないといけない。
蠢くものを感じながら、ネルはリバスークに向かった。
リバスークに昨日の面影はほとんどなかった。歓喜と繋がりの村が、炎と煙に包まれている。ただ炎が燃え、誰一人として泣く者はない。叫ぶ者も、怒る者も、どこにも見当たらなかった。
昨日までは平然と潜れた門。しかし今日はその境界線を越えることが、なかなかできない。足が地面に縫い付けられているかのようだ。
足を千切る思いで一歩を踏み出す。その背中を押したのはやはりミリアの存在だ。
燃え盛る炎によって建物が倒壊していく。その度に熱気がネルに襲いかかった。覚えたはずの建物が、まだ記憶に新しいその顔ぶれが、変わり果てている。赤く、赤く、赤く、そして黒い。どこを見ても、炎と死体しかなかった。
こんなにも変わり果てるものなのか。ネルの胸は押し潰されそうになった。ほんの一日足らず――数時間前は「普通の日常」があったのに、完全に奪われてしまっている。夢であってほしいと思うほどに。
「あった……」
周りの建物は燃えているが、酒場はまだ火の手が及んでいなかった。及んではいないが、燃える建物よりも嫌な感じがした。煙よりも濃く、粘り強い黒いものが見えるようだ。
誰もいないなら彼女もいないはずだ。
ただそれを確かめればいいだけだ。
得体の知れない届け物を開くような心境で、ネルは酒場に入った。
「トリル……?」
店の奥で佇む彼女の姿を見つける。顔は見えないが、見覚えのある服とエプロンはこの酒場で唯一のウエイトレスであるトリルだと証明していると言っていい。
分け入って進み、彼女を見下ろした。
まぎれもなくトリルだった。服は裂かれ豊かな胸が曝け出され、エプロンは赤く染まっている。顔に傷はなく、目は開かれ、涙を流した跡があり、口はだらしなく開かれたままだ。
膝を曲げ、顔を寝顔のように整えた。その手は震えていた。そのときまで自分が震えていることにネルは気付かなかった。
もう一つ気付いたのは、その「獣臭さ」だ。彼女から出た臭いと、彼女やその付近に付着している白濁した液体の臭いが混じっている。
(おやすみ、トリル)
ネルが心の中で呟くと、意識が周りに――店内にいる男たちに向けられた。トリルを囲むように立ち、ネルを見てもにやにやとしているだけのブランドアの兵士だ。
振り返ると、あの二人もその中にいた。
「なんだこのガキは」
「最近ここに来た子供らしい」
「眺めてるだけでよかったのか? 触ってみろよ。上物だぞ」
「いい具合だったよな」
ブランドアの兵士たちは笑いを含みながら話してきた。それがどうでも不愉快で、ネルの中でなにかが芽生えようとしていた。
「どうしてトリルを殺したの」
「神のもとに行かせてやったんだ」兵士の一人が言う。「ノワルゲートの連中は魂が穢れてるからな。その魂を浄化してもらえるようにしたんだ。救ってくれた神と正義を執行した俺たちに感謝しな」
戦争はそれぞれの正義の衝突だとも言う。国の、政治の、企業の、思想の、ありとあらゆる正義が絡んで、戦争という大きな災害が起きるのだ。多くの人がいるかぎり、その人の数だけの心があるかぎり、それは避けられない。
トリルも考えなかったわけじゃないはずだ。
敵を助ければ、いつかはこうなることが。
「浄化できたから慰みものにしたの?」
「これだけ上玉だからなあ」
仕方ないよな、と同意を求めると、全員が嫌らしく笑う。楽しんだことを思い出しているのだろう。それぞれに感想を言っていたが、どれもどうでもよくネルの頭には入ってこなかった。
ただ一つを除いて。
「いい声で鳴いたよな」
瞬間、ネルはその発言をした兵士に向かって飛びかかっていた。左手で頭を掴み、その勢いは酒場の壁を突き破り、そのまま地面に叩きつけた。
「あんたたちの正義は偽物だ……!」
「割れ……、割れる……っ!」
「そんなことは聞いてない!」
スイカが弾けるように、兵士の頭が四散した。眼球が潰れずに飛び、脳髄が地面に散らばった。手に残った骨と肉の感触を忘れるために、ネルはそれらを振り払った。
まずは一人。
ネルは立ち上がって振り返る。四人の兵士がこっちを見ていた。
「お前! ただの子供じゃないのか!」
魂の浄化という理由でトリルを殺害したことも、その後に慰みものにしたこともネルにとっては不思議と問題ではなかった。そういう世界で、そういう場所だからこそ起きて当然だと、すんなりと納得できたのだ。
悲しみはある。けれどそれだけだ。
ネルの怒りの原因は、彼らの「偽り」にある。正義だ、浄化だ、と並べているが、彼らはそれを出しに使っているだけだ。彼女がつけていた仮面を、彼らもまたつけている。それが逆鱗に触れていた。
まるで制御できない。この機会を待っていたかのように、怒りが止めどなく溢れ出る。
「生かしておくかァ!」
四人に向かって飛び出す。明らかに反応が遅かった兵士の頭を掴み、思いっきり身体を回転させた。鞭のようにしなった男の身体が他の三人を吹き飛ばし、振り切ったところでボールペンの蓋が抜けるように頭からもげた。
飛んでいく身体にある包帯を見て、それがトリルに助けられたうちの一人だと気付いた。昨晩の姿とさっきの姿が同時に脳裏に浮かんだ。
(あれも、嘘だったんだ……)
ネルは奥歯を強く噛み締めた。
もう一人を見つけ、立ち上がろうとしているところに、持っていた頭を投げつけた。二つの頭が衝突し、水風船のように中のものを撒き散らした。胴体がまだ少し動いていたが、ネルの意識はすでにそれから外れていた。
あと二人。
早急にことを済ませようとしたが、それを妨げるように視界が赤く染まった。金属を爪で引っ掻くような音が一瞬し、目の前に光の粒を見つけた直後のことだった。
ネルの身体は後方に飛ばされ、酒場の壁に背中を打ちつけた。
「――っ!」
また光の粒と金切り音がして、とっさに回避する。
今度はその「赤」の正体を認識できた。それは「爆発」だった。光の粒が生じると、それを中心にして周囲の空間が歪んだ。そのときに高音が発生し、認識できなくなるほど高まると、閃光と炎が広がった。
酒場の壁が破壊され、店が燃え上がり始める。
トリルのことを一瞬思い出すが、嫌な気配を感じ、ネルは振り返った。兵士たちとは違う異質さがひしひしと背中に伝わってきたのだ。
「ずいぶんと遅いもんだから迎えに来てみれば、ノワルゲートの奴と戦ってたのか」
その男の髪は赤みがかり、前髪は右目を隠していた。鋭い目つきは左側で確認でき、顔つきや態度、そして力の大きさを表すかのような威圧感が、彼を只者ではないと、今まで出会ってきたブランドアの人間とは別格の存在だと証明していた。
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