第10話 誰の夢
「みんなにはこのこと内緒だからね」
鐘楼から降りたとき、彼女は釘を差すように言った。もちろん吹聴する気は毛頭もなかったネルとミリアは首を縦に振った。
酒場に戻ると、唯一の看板娘かつウエイトレスのトリルがいないのに、いつも以上の賑わいを見せていた。身体を突き飛ばすような笑い声と熱気が、開いた扉の奥から溢れ、ネルは茫然としてしまう。
「よお、トリルじゃねえか! 早く来いよ!」
酒を煽いでいた一人が、トリルに気付き誘った。その大声で全員の視線がこちらを向き、みんなが口々に似たようなことを言う。今日会ったほとんどの人がいて、ネルたちを呼ぶ声もあった。
「やってるねえ!」
動じないどころか、知っている素振りを見せるトリル。
「え、なにこれ?」
「昨日助けた二人がいるでしょ? あの二人が私たちを見て家族を思い出したんだって。どこか寂しそうだったから、私たちで賑やかな時間をあげようって思ったんだよね」
「そうなんだ」
話をしていれば、件の二人が近づいてきた。一人はまだ本調子じゃないようで、もう一人に肩を借りている。だが、あのときよりはずっと顔色もいい。二人とも同じくらいの年齢の青年だ。
「トリルさん、ありがとうございます!」肩を貸している方が言った。「こんなの久しぶりで、俺、嬉しいです!」
「なにからなにまで、本当にお世話になってしまって……」
「いいのいいの。こっちは好きでやってるんだから。迷惑じゃないならよかったよ!」
「迷惑だなんてとんでもない!」
大袈裟に手を振る男に、トリルは笑みを返した。その笑みにまた、男たちはたじろいでいた。この男たちもトリルの虜になってしまったようだ。
二人の青年は、他の客に呼ばれて、踵を返した。本当に懐の広い人たちだ。青年たちの肩を抱き、大声で笑う。その姿は完全に酔っ払いのそれである。
「二人もなにか食べるでしょう?」
「うん。でも一回戻ろうかな。まだ来てないみたいだし」
いつもの席は空いている。それはアンリたちが来ていないという証拠だ。ミリアによれば出掛けているらしいが、いったいなにをしているのかも気になる。
「わかった。じゃあまたあとでね」
酒屋をあとにして、小屋に戻るネルとミリア。明るく賑やかな場所にいたのはほんの少しの時間だったのに、暗く静かな夜の空間がやけに寂しいものに感じられた。訊きたいことはあったが、その道中で話したのは今日一日のことだけで、核心には触れられなかった。
小屋の窓からは光が漏れ出していた。二人のどちらか、あるいは二人とも帰ってきているようだ。
「今回の実験体は期待が持てそうね」
扉を開けている途中、アンリの言葉が聞こえた。ノノリルがそれに対してなにかを答えている最中だったが、ネルたちに気付き、会話は中断された。
「おかえりー」と言うノノリルに、「ただいま」とミリアとともに返した。
「今トリルのところで宴会みたいなのやってるよ。昨日の二人の回復祝い的な?」
「へえ、そうなんだ。それは早く行かないとね」
そう言って、ノノリルは立ち上がり、流れるように閉める途中の扉からするりと出て行った。その手はいつの間にかミリアの手を取っていた。
小屋にはネルとアンリだけが残され、少し遅れてネルは扉を閉め切ることができた。
「今日はどうだった?」
「楽しかったよ」ネルは言いながら椅子に座った。「お金ありがとう。あ、まだミリアが持ってるんだった」
「そのまま持っていていいわよ。何度も渡すのも面倒だし」
「アンリたちはなにをしてたの?」
「もちろん『廃獣化』の調査よ。実はまた廃都ができてしまったの。ウラシフから少し離れた街に『廃獣化』が蔓延していたわ」
「ブランドア……」
彼らの神焔法が、また一つの街を崩壊させた。魔力を奪われて廃獣になるのは深淵術を使う者だけだが、廃獣になった彼らが襲う相手は無差別だ。見つかり、追いかけられ、その手が届いてしまえば、命を落とすことになる。
その街でも、ミリアのような子が出てしまったのだ。
ネルは奥歯を噛み締めた。
「対策とかしてないの? 簡単に攻め込まれすぎじゃない?」
「そうね。結果だけを見ればたしかにそう言えるかもしれない。でもだからといってノワルゲートがなにもしていないわけじゃない。ただ敵がそれを乗り越えているだけの話よ」
「だけの話って……。同じ国の人が殺されてたり……ううん、そもそも人じゃないモノに変えられたりしてるんだよ? なんとも思わないの?」
「称賛はしているし、いい研究材料をくれることに感謝もしているわ」
ふつふつと心に湧き起こっていた感情が、なにごともなかったかのように沈み落ちていく。アンリに苛立っても仕方ないのだ。彼女はあくまで研究者であり、別にこの国を守ろうとしているわけじゃない。興味がなければどんな相手だろうと見捨てることができることを、ネルは忘れていた。
テーブルの上に落ちた視線を上げると、アンリの瞳が静かにネルを捉えていた。まるで心の落ち着きを見透かすかのように。
それに、そっちのことをネルが気にしていても仕方ない。ネルは別にノワルゲートを守ろうとしているのではない。今はミリアに悲しい思いをさせたくないだけだ。ネルもアンリと同族だ。
興味の対象以外を度外視している。
だからネルは、その興味の対象について訊ねる。
「ミリアの両親のことは知ってたの?」
「ええ。……家族を守れなかったことを悔やんでいたわ。話を聞いたの?」
「そんなふうなことを言ってたんだ。僕の勘違いであって欲しかったけど、アンリが言うなら本当なんだろうね」
ミリアのことを考えるとどうしても胸が締め付けられる。言葉が出なくなる。トリルはそれなりに経験をして、弱さを見せないようになった。
けれどもそれは本来歳月を重ねることで、会得できる技術でもある。ミリアはその過程を何段も飛ばし、気丈に振る舞っている。もっと弱さを見せていい歳なのに、それを理由にしない。
ネルの中に募るもどかしさは、どこまで踏み込んでいいのかがわからないから生じるものだろう。ミリアが話したいなら話せばいいと思いつつも、やはりこちらから訊き出して、少しでも心の負担を減らしたいとも思ってしまう。
今はまだミリアに心を開いてもらうのを待つばかりだ。
「わたしたちも行きましょうか」
ネルは頷き、アンリと小屋の外に出た。
酒屋に向かう道中は無言が続くと思っていたが、意外にもアンリが口を開いた。
「明日もわたしとノノリルは出掛けるわ。ネルはどうする? 街を守るためにブランドアと戦う?」
「いや……、僕はミリアといるよ。ノワルゲートを守るのは、ノワルゲートの人たちがやってくれてるんでしょ?」
「そうね。それがいいわ」
アンリに肯定されると、どうしてか正しいことをしていることに思える。間違っていないのだと、心を強く持てた。
それからはやはり無言だった。風が吹けば、葉の擦れ合う音がヘッドホンで聴いているかのように傍に感じられた。閑散とした重い空気が、少しだけ軽くなり、ネルにはありがたかった。
酒場はさらに盛り上がりを見せ、人が収まり切れておらず、外で飲んでいる人も多く見られた。ネルもアンリも歓迎され、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになった。
「ネルさんも、マユさんもいらっしゃい!」
仕事モードのトリルが、奥の席へと誘導してくれた。いつものエプロン姿になってしまったのは少し残念だった。
ただその残念さも、すぐに忘れてしまう。盛り上がりは留まることを知らず、常に大きな笑いが爆発するように起きた。その中心にいたのはノノリルだ。大食いや早飲みなどの余興に全力で参加し、おおいに場を盛り上げた。
場の空気に呑まれ、ネルもその熱狂の一部となって、ノノリルを応援し、時に罵倒することもあった。
もはや誰が主役なのかもわからないその宴会。
誰もが主役のその宴会。
夢のようだった。
「夢に飲まれてはダメよ」
唐突にアンリがそう言ったので驚いたネルだったが、しかし自分が「夢のようだ」と声にしていたことに遅れながらも気付いた。
「人は夢を見る。人だけじゃなく、虫も、動物も、草木も……この世にあるすべてのものが等しく夢を見るわ」
「意思がなくても?」
「それそのものに意思はなくとも、意思を宿すことはできる。たとえばこの村がそう。村人の意思が、村に夢を見せているわ。そしてその村が見る夢の中に、わたしたちはいる。でもね、これは間違い。本当は、たった一人の夢の中に、村全体が飲まれているの」
「ふうん?」
ネルにはただそれがロマンチックな言葉にしか思えなかった。だから彼女がそんなことを言うことに密かに驚いていた。しかしそれは誤解だ。アンリが語るのだから、それこそ夢幻のような話ではなく、証明されたことなのだろう。
「人の意思の集合が夢であり、夢とは一つの世界であるということよ。そして夢という世界は内在するだけでなく、外側にも干渉し、現実を浸食することもある」
「よくわからないよ」
「それはあなたが夢の中にいるからよ」
夢の中にいる。
それはここに来たときに感じたことだ。あのときにネルはたしかに命を落とした。衝撃は脳に刻まれ、そのときの光景も薄らだが憶えている。否定できない現実。ネルだけが知りえる真実なのだ。
だとするならば。
ここを「夢」と定義するのならば。
いったい誰の夢を見ているというのだろう。
誰に誘われたというのか。
「それが希望であれ、欲望であれ、夢であることには変わりはない。でもね、ネル、ひとつ勘違いしてはいけないわ」
光がぼやけ、音が少し遠くなってきていた。
ふわふわと心地いい。
「勘違いって?」
「誘った手を掴んだのは、あなた自身だということよ。夢を求めた意志があったからこそ、ネルはここにいるの」
ネルはあの間際になにを考えていたのか思い出そうとする。
どんな夢を見たいと思ったのだろう。
どんな希望を抱こうとしたのか。
どんな欲望を吐き出そうとしたのか。
記憶の欠片を繋ぎ合わせても、それが結晶となることはなかった。
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